すこし相模のほうへ下りた途中の、山と山の間の広野である。こんなところで、何人の丹精《たんせい》で、こんな花園があるかと思われるくらい、地べた一めんに高山植物が花をつけて、ひろい野原に、赤、黄、むらさきと、一望に咲き揃っている眼も綾《あや》な自然の友禅模様《ゆうぜんもよう》――高い山にはよくあるお花ばたけなのである。
三国ヶ嶽から藤屋へ駈け下りた大次郎は、法外先生が階下の白覆面のために、肩に重傷を負わされたのみか、その一行は、騒ぎに紛れて千浪をひっ攫《さら》い、急遽《きゅうきょ》袂《たもと》をつらねて下山の途についたと知るや否、腰間《こし》に躍る女髪兼安を抑えてただちにあとを踏み、今やっとこの中腹のお花畑へ、千浪をかこんで麓へいそぐ一同に追いついたところだ。
江上佐助の文珠屋佐吉は、途中も気を配って捜して来たがどこにも見えない。
そして、これが、眼ざす祖父江出羽守とは、大次郎知る術《すべ》もないが、養父同然の恩師法外先生のかたきではあり、いま目前に、千浪様を掴まえて伴れて去ろうとしている相手だから――大次、しずかに女髪兼安の鞘を払って、とうとう抜いた。
出羽は、猿の湯の猿を殺して山に渦紋を招き、伴大次郎は禁制の女髪剣に陽の目を見せて、いよいよこの紛乱にいっそうの血しぶきをくれようとしている。
きのうの宵、三国ヶ嶽の月が笠をかぶったのは、ただ、昨夜のお山荒れをだけ予言したのではなかった。この、人界の血の暴風雨と、それから捲き起る万丈の波瀾を警告したのではなかったろうか。
そして、このすべては、善も悪も「煩悩」の二字が操るように人を動かして。
「まいるぞ。」
しずかな声で、大次郎が言った。
と、瞬間に、正面の北伝八郎を襲うと見せた大次郎、だっ! 横ざまに足を開いて、右手にいた一人へ片手なぐり――女髪兼安は、がっと聞える異妖なよろこびの叫びを揚げて、肉を咬《か》み、骨を削った。
たら、たらと、女髪を伝わって鍔もとを舐める温かい人血。
「ふふん、こりゃそうとうできる!」
中之郷東馬がそう言ってにやりとすると、大次郎も笑いながら、
「お賞《ほ》めにあずかって――それでは、次ぎは貴殿へゆこう。」
くるりと、斬尖《きっさき》を東馬へ向けた。
入道雲
もう、伴大次郎は、伴大次郎ではなかった。下谷の小鬼だった。
間もなく――一人ふたりと女髪兼安を
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