気《おしげ》もなくその身体《からだ》を湯に嬲《なぶ》らせて、上ることも忘れたふうだった。
逢魔《おうま》が刻《とき》という。
山の精にでも憑かれたのか――やがて、涼しい声が千浪の口を洩れて、
「ひとうつ、ふたあつ、三つ――、四つ、いつつ、六つ、七つ――。」
数を唱《とな》えだした。興に惹かれるまま唄のように節をつけて底の礫《こいし》を読んでいるのだ。
「九つ、十、十一――。」
一つは二つと、思わず、声が高くなった。
その声が、魔を呼んだのである。
「はてな――?」
と小首を傾けて、その時、この阿弥陀沢の頂きを急ぎ足に来かかった葛籠笠《つづらがさ》が、はたと、草鞋《わらじ》を停めた。
「声がする。待てよ。女の声のようだが――。」
ふかいつづら笠に面体は隠れて、編目の隙に、きらりと眼が光るだけだが、道中合羽《どうちゅうがっぱ》に紺脚絆《こんきゃはん》、あらい滝縞の裾を尻端折《しりばしょ》って、短い刀を一本ぶっ差した二十七八《しっぱち》のまたたび姿。
「ううむ! 好い声だなあ。この文珠屋佐吉《もんじゅやさきち》の足をとめる声、聞いていて、こう、身内がぞくっ[#「ぞくっ」に傍点]とすらあ!――駿《すん》、甲《こう》、相《そう》の三国ざかい、この山また山の行きずりに、こんな、玉をころがす声を聞こうたあ、江戸を出てこの方、おいらあ夢にも思わなかった。おお、何か数えている声だが――。」
右手に谷を望んで、剣の刃わたりのような一ぽん路だ。草のなかの小径に、釘づけにされたように歩を忘れた男の耳へまたしても響いてくる銀鈴の山彦――。
「下から聞える。それに、湯のにおいがする。」男は片手を耳屏風に、「十一、十二、十三――何を数えてるのか知らねえが、とんだ皿屋敷だ。ここらは猿の棲家《すみか》だてえから、定めし狐も多かろう。化かされめえぞ。」
と、歩きかけたとたん――木の間をとおして、閃めくように眼に入った眼下の湯の池と、そして、そこに何を認めたのか、江戸の文珠屋佐吉と自ら名乗るその男は、ひた、ひた、と吸い寄せられるように路を外れて、歯朶《しだ》を踏みしだき、木の根を足がかりに、たちまち、そこに、谷を覗きぐあいに生《は》えている一本の山桂の枝へ、油紙包《ゆしづつみ》の振分《ふりわ》けを肩にしたまま、ひょいと飛びついた。
ひらり!
奇怪! なんという身の軽い男!
天然露
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