にはっとした顔を上げて大次郎を凝視《みつ》めた。

     猟くら悲誌

 こんな山奥――三国ヶ嶽のふもとの阿弥陀沢に、猿の湯などという温泉のあることは、千浪はもとより、弓削法外も知らなかったので。
 ここへ入湯に来ることを言いだしたのは、この門弟筆頭の伴大次郎なのだった。
 しばらく暇を貰って三国ヶ嶽へ往ってきたい――下谷練塀小路の道場で、こういきなり大次郎が願い出た時、師の法外はちょっと考えて、わしも一しょにと膝をすすめた。そして、娘の千浪を連れて、と。
 それならば、ちょうど、山のすぐ下に珍しい湯の宿があるから暫時《ざんじ》それに逗留《とうりゅう》なさるのも一興であろうと、この大次郎のことばに従って、道場は留守師範の高弟に預け、父娘師弟の三人づれ、そこはかと江戸を発《た》って来たわけ。
 これが、もう、半つきほどまえのこと。
 山中、暦日なし。
 のんべんだらりと滞在して、山の宿屋めしにもあきてきたが。
 元来法外は、じぶんもいささか旅にでも出て都塵《とじん》を洗いたい気持ちもあったし、それよりも、気らくな旅の起《お》き臥《ふ》しに、まず二人を親しませたい心づかいから、折から大次郎が言いだしたのを幸い、かれを案内に立ててあたふたと、ああしてこの深山《みやま》の湯へ分け入って来たのだけれど、そういつまでも江戸の道場を空けておくわけにもいかない。
 きょうは帰ろう、明日は発とうと思うのだが、大次郎ここに何か目的《めあて》があるらしく、しきりにその日を待つようすで、いっかな腰を上げようともしない。
 そのうちに、どうやら法外も山に根が生えた気味で、とうとう三人、今日まで藤屋に日を重ねてきたのだけれど。
 その、大次郎の待つめあてとは何か。
 第一、かれは、どうしてこんな辺鄙《へんぴ》な場所を知っていて、そして何しにここへ来、今まで動こうとしなかったのか――。「身許を包んでいたわけではありません。ただいま先生にも申し上げましたが、私は、この近所《きんぺん》の、山伏山のむこう側にあたる田万里《たまざと》というところの生れで――。」
 眼の大きな、すっきりした顔を千浪へ向けて、伴大次郎が静かに語りだした。
「その村は、わたくしの一家は死に絶え、一村ことごとく離散して、今はあと形もありません。私としては、家ひとつない昔の部落《むら》あとにも、言いようのない懐しさを抱いてお
前へ 次へ
全93ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング