共に暮らせるものではなかったのだ。出羽を討つにしろ、また討たれるにしろ、早晩千浪に歎きを見せるは必定――それを思えばこそ――。」
と大次郎は、またちょっと頭巾の端を撥ね上げて、その別人のように変った顔を佐吉に見せながら、
「かように面貌が一変いたしたのを幸い――幸いと言うよりも、それをきっかけに、まるで心まで変ったように見せかけて、愛想づかしをして道場を出て来たのが、千浪は、あんなに辛く当ったおれを、こうして探し歩いてくれるのだ。江上、察してくれ。」
その大次郎の心中を思って、江上佐助の文珠屋佐吉、隠れ名、煩悩小僧は、その生まれながらの醜い顔に涙を浮かべたのだったが、ややあって大次郎は、
「だからおれは、もう一度風に吹かれて街をさ迷う。千浪は道場へ帰ってもいたし方あるまい。どうだ、佐吉、迷惑は重々察するが、しばし千浪をこの家に預ってはくれまいか。」
言われた時に佐吉は、あんなに恋い焦れていたこの千浪が親友伴大次郎のれっきとした妻であったことを知ると同時に、隠しようもない失望と共に、また、この大次と千浪のためにできるだけのことをしようという、清い新しい決心が湧いて来て、
「承知した。千浪さんのことは、おれが引き受けたから、安心していてもらいたい。」
「大次郎さま! 大次郎様!」
意識を取り戻そうとして、まだ千浪は、夢の境からハッキリ覚めきらないと見える。
その時室内から、良人《つま》を呼ぶ彼女の声が細々と、二人の耳へ洩れて聞えて来る。
その己が身を慕って呼ぶ恋妻千浪の声を聞いた時に、それを振りきって出て行こうとする伴大次郎の心は、どんなであったろう!
飽きも飽かれもせぬ仲を、復讐と、彼女の幸福のために、哀恋の糸を自ら絶ち切って武士なればこそ、辛い大次郎ではあった。
佐吉は声を忍ばせて、
「それじゃあ行くか。いま言ったとおり、おれが預かったからにゃあ、大事な客人として誰にも指一本指させるこっちゃあねえ。安心していなせえよ。」
「思わぬ苦労で、千浪は身体が弱っておるらしい。充分ともに気をつけてやってくれ。」
と捨て行く妻の身を案じて、なおも佐吉にくれぐれも頼んだのち、白覆面の煩悩児伴大次郎、白衣の懐手の袂をぽんと背後に撥ねたかと思うと、
「ではいずれ――。」
飄然として、この伝馬町の旅籠文珠屋を後にした。
煩悩の女髪を宿す右近三郎兼安の朱鞘に、暮れゆ
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