ちが一尺寄って来れば、この刀は女の首を芋刺しに畳を突き通すのだ。わっはっは、わっはっは。」
 三国ヶ嶽の麓に住む、年古りた猿のような笑い声が、その出羽守の頭巾を洩れ、白衣に包まれた肩が、怪しい笑いに大きく揺れる。
 はっ! と刀を持つ手を宙に凍らせた大次郎は、思わず一歩退って、
「ううむ! おい、文珠屋、悪いところを押さえられてしまったな。」
 これも脇差を抜いて、そばに構えていた文珠屋佐吉、
「これはちと困った。手の出しようがねえ。」
 その間も出羽守の笑いは、高々と響いて、
「そちがおれを斬ると同時に、おれはこの女を刺し殺す。この女とおれと、二つの死骸が重なれば美男美女の心中というものじゃ、ははははは、どうした。かかって来ぬか。」
 ひっそりとした室内に、三人の荒い息づかいが聞えるだけで、千浪は何事も知らずに、うつらうつらと夢心地でいるらしく、肩のあたりが、優しい呼吸に動いているだけで――。
 このままではいつまで経っても睨み合いが続くだけで、どう結末がつこうとも見えなかった。
 出羽守は、立ちはだかったまま、その千浪の寝姿の上に跨がり、真珠のような美しい首に、刀の斬尖を一、二寸上に止めて、頭巾のなかの眼を上眼づかい、じっと大次郎と佐吉へ視線を凝らしているので。
「どうじゃな、刀を引いたほうが利口らしいの。」
 そう出羽守が、口を歪めて言った時だった。
 不思議なことが起ったのである。
 夕方に近いとは言え、暖かい小春日和で、今日も日本橋の袂など、ああして人が出盛ったくらい、冬にしては暖かな強い日光が、まだ戸外にきらめいているのだ。
 ことに西陽を受けて、この伝馬町あたりは、かっと瓦が燃え立つような茜色《あかねいろ》の空。
 縁の障子が開けられ、すぐ外は中庭を隔てて、向うの部屋になっているのだが――。
 この瞬間である。
 千浪の上から首に刀を擬していた祖父江出羽守が、あっと小さく叫んだと思うと、片手を頭巾の眼へやって、いかにもまぶしそう。刀を片手に、一瞬間、ちょっとその緊張した姿勢が乱れた。
 背を伸ばして、自然、刀の斬尖は千浪の咽喉首から、一尺も上へ上がったのだ。
 この不意の出来ごとに、虚を衝くことも忘れて、大次郎と佐吉は、驚きの眼を合わせて立っている。

     眼つぶし鏡

 一条の光線が、その出羽守の眼を射たので。というのは、ちょうどその中庭を隔て
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