かり思われて今までは顔を見せて弁解することもできなかった伴大次郎も彼と知らずに斬りかかって来る泉刑部はじめ、自分の弟子たちを疵つけないように斬り払ったのち、これ幸いと道場を後にした。残された山路主計、北伝八郎、中之郷東馬、それから指無しの川島与七郎の面々何やらさっぱり解らない顔で、
「勝負はお預けだ。いずれまた来る。」
 と、泉刑部等に一言投げ捨てておいて、
「それ、殿様に遅れるな。」
 と大次郎の後を踏んで、道場を飛び出したが、その時はもう、先に出た文珠屋主従をはじめ、宗七も伊予之進も、大次郎の影も、その下谷練塀小路の横町にはなくて、暮れに近い日脚が白っぽい道に弱々しい光りを投げていた。
 すぐそこの角は、名ある人のお囲い者の住居でもあるか、お約束の舟板塀に、冬の支度に藁を巻いた見越しの松が、往来に枝を拡げて、お妾の所在なさであろう、この夕暮を退屈そうに、今|流行《はやり》恋慕流しの一節が――。

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「君は五月雨
 思わせ振りや
 いとど焦るる
 身は浮き舟の
 浪に揺られて
 島磯千鳥――」
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「殿様は、どこへいらしった。」
「どうも今日は、よく姿をお隠しになる。」
「また晦《ま》かれたのか。まあ、仕様がねえ。ぶらぶら歩いて行くうちには――。」
「ひょいとまた、そこらの横町から顔をお出しなさるだろう。」
「しかし、それにしても、あの恐ろしい面をした町人は何ものだ。出羽守と聞いたら、血相を変えてむかって来たが――。」
「あの岡っ引らしいやつも、殿様のお名前を聞いたら顔色を変えおったが――。」
「何だかさっぱり合点のいかねえことばかりだ。」
 あははは、と笑い声を合わせた一行、大道狭しともと来たほうへ、ぶらりぶらりと歩き出したが――。
 それを送るかのように、また耳をくすぐる恋慕流しが漂って来て。

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「君は五月雨
 思わせ振りや
 いとど焦るる――」
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 この唄の洩れて来る、その妾宅の裏に、この時、ぴったり貼りついている二人は、道場を飛び出すと同時に、うまく川俣伊予之進をまいてしまった恋慕流しの宗七と、文珠屋佐吉で、
「おい、有森、しばらくだったなあ。お前は、先日三国ヶ嶽へ来なかったじゃないか。」
「七年目に山で会う以外は、往来で擦れ違っても、口をきかぬ約束だが、こうし
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