て去り行く千浪のあとを、見送ると、佐吉、物凄い笑いに眼を光らせて、傍らに立っている若い男をかえり見た。
「由や、御苦労だが、ちょいとあの二人をつけて、はいった家《ところ》を見届けてくんねえ。」
 文珠屋佐吉の乾児《こぶん》で承知の由公、こいつ、名打ての尾行《つけ》や張込みの名手なので。
「承知!」
 と、綽名にまでなっている得意のひと言、由の字、もう、とっとと小刻みに、流れるような通行人を楯に身を潜めて、消えて行った。
 先の二人は、橋をわたって室町一丁目、二丁目、本町――神田のほうへ。
 後から由公、見えがくれに鼻唄まじり。ずっと橋を渡りきるあいだ、それを見送っていた文珠屋佐吉は、安心したのか、にやっとほくそえんで歩き出していた。

     口を利く鬼瓦

 東へ下がって思案橋を過ぎ、堀留から大伝馬町の文珠屋という看板を掲げたわが家へ、帰り着いた佐吉は、その鬼瓦のような顔を、皮肉な笑いに引きつらせていた。
 部屋部屋の女中の役目から、台所の板場、水仕事まで、おんなというものを一人も置かずに、何からなにまで男の手でやっている、一風変った宿屋である。
「いま戻ったぞ。」
 文珠屋佐吉は、侍のような言葉づかいで、ずいと、その薄暗い土間へはいって行った。
 時代で黒く光る帳場格子の中で、なにか帳合いをしていたらしい番頭の与助が、そろばんをそのままに、筆を耳に挾んで飛び出して来た。
「これは旦那、お帰んなさいまし――あの、由さんは。」
「うむ。由公か。ちょっと用達しがあってな、ほかへ廻った。」
 言いながら、裾をはたいて上った佐吉は、大股に帳場を通り抜けて、二枚暖簾をうるさそうに頭で押し分け、奥の居間へはいっていく。
 無言である。いつも口の重い文珠屋佐吉なのだが、きょうは何か心配ごとでもあるらしい顔つきなので、長く店にいて主人の気質も、何もかも知りぬいている与助は、おずおずあとにつづいて、
「何かございましたので――お出先にでも。」
「あったとも、大ありだ。」
 佐吉は、どしんと縁側を踏んで、白壁の土蔵につづいた六畳の茶の間へ。
 茶の間とは言っても、女房はおろか、家じゅうに女中ひとりいないのだから、茶の間らしい寛《くつろ》いだ、意気な空気はすこしもなく、茶だんすに長火鉢、それも秋口なので、火は入れてない。それだけ。
 いたって殺風景なこしらえ。
 すぐ眼の前が中庭で、
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