震いをしながら、庭の奥を見定めようとするように、軒下の闇黒に首を突き出した。が、遠くを見るまでもなかった。その、戸外へ伸ばした初太郎の鼻っ先に、だらりと二階から下っている人間――首吊――女らしい。そうだ、女の首吊だ。風に吹かれている。大きく揺れている。小刻みにふるえている。庇越しに、階上《うえ》から細引で垂れ下がっているのだ。
「あおっ!」
 と、出そうとしても出ない声を出して、初太郎は風に突き飛ばされるように一瞬に部屋に転げ込んでいた。無意識だった。あたまから蒲団を被って、もう一度叫ぼうとした。声を成さなかった。初太郎の聞いたものは、自分の歯の細かくかち[#「かち」に傍点]合う音だった。そしてそれは、まるで鍛冶屋の乱打ちのように、耳いっぱいに響いた。
 悪夢?――しかし夢ではない。初太郎はこわごわ床のうえに起き上って見ると、紛《まぎ》れもない女の首吊が、雨戸のすぐ外に宙乗りして、一段黒く遮ぎっているのだ。風を受けて、前後左右にしずかに揺れている。そればかりか、凝視《みつ》めているうちに首吊は、すう、すうと上から誰かが引き上げるように、五寸ぐらいずつ競りあがって往くではないか――。
 初太郎は、眼をこすった。見直すまでもなく、女だ。女の首吊だ。この鍋屋のお美野だ。
「うわあっ!」と、両手を頭のうえに振り廻して、初太郎は、弾《ば》ね仕掛けのように躍り上っていた。
「お女将さんだあ――!」
 ここは大鍋の別棟で、母家とは庭つづき、客が立て混まないかぎり、普段は家うちの者が寝泊りをするところとなっているのだが、その晩は混んでもいたし、それに、小金井の初太郎は以前《まえまえ》からの定客なので、なかは内輪あつかいにその部屋を当てがわれたのだ。で、初太郎の真二階《まうえ》は、女将お美野の寝床になっている。だからお美野は、じぶんの居間の縁側から、細引きで、階下の初太郎の縁のそとへ吊り下っているわけで、首吊は、初太郎のほうへ背中を向けているのだが、そのお美野の着ている荒い滝縞の丹前に、初太郎は覚えがあった。宵の口から風邪気味だといって、お美野は先刻帳場でもその丹前を羽織っていたことを、かれは思い出した。首吊の髪は、手拭いをぐるぐる巻きに結い込んでいる、俗にいういぼじり[#「いぼじり」に傍点]巻きである。頸に細引きがかかって、それでぶら下っているのだろうか、綱は、暗くて見えなかった。首吊は見るみる競り上るように、のし上るように、軒の下をまっすぐ棒のように揺れ昇って往く。丹前の裾から覗いている足は、素足だった。はだしの足が、二つ並んでぶらぶらして、それが雨戸に当ってああして音を立てたのだった。
 呆然と見守っていた初太郎は、気がつくと同時に廊下へ駈け出して、向側の部屋へ跳び込んでいた。寝る前に風呂場でちょっと顔が合っただけの、全然識らない人だったが、そんなことは言っていられなかった。突っ走るような初太郎の声で、四十余りのでっぷりした男が、すぐ蒲団を蹴って起きて来た。これは仙台様へ人足を入れている堺屋小三郎の小頭《こがしら》で宇之吉という、しじゅう国許と江戸表とを往復している鳶の者だった。初太郎が呆気にとられている宇之吉を、無言で自分の部屋へ引っ張って来て、雨戸の外に吊り上って行く首吊を見せると、宇之吉も、顔いろを変えた。
「お! これはお女将さんじゃあねえか。どうしたというんですい。」
「どうもこうも――、」初太郎は、口がきけなかった。「ふっと眼が覚めたら、あれが――あんなものがぶら下ってるんで。」
「はてな、なんにしても大変事だが、自分で縊れ死んだものなら首吊が競り上って行くという法はねえ。」宇之吉は考えて、「この二階《うえ》がお女将さんの寝間でごわしたな。上ってみよう。」
 初太郎のいるすぐ外が、中廊下の往き止まりになっていてそこに、二階へ上る唯一つの梯子段がある。上るにも降りるにも、此段《ここ》を通らなければならないのだ。二人は息せききって二段ずつ一跨ぎに駈け上った。二階も同じ造りである。切込みの角行燈が、ぽつんと人影のない長廊下を照らして、どの部屋も眠っているらしく、しいん[#「しいん」に傍点]としている。取っつきのお美野の寝間には、有明行燈の灯がぼうっと障子に翳《かす》んで、何の異状もありそうに思えない。が、時を移さず踏み込んだ二人は、室内の様子を一眼見るより、二度ぎょっとして立ちすくんでしまった。今のいま外にぶら下っていたお美野が部屋の真ん中の寝乱れた床の傍に、仰向けに倒れている。闇黒に揺れていた荒い滝縞の丹前を踏みはだけて、白い膝がしらを覗かせ、素足の足に苦悶の力が籠もって、指がのけ[#「のけ」に傍点]反っているのだ。首に巻いた細引が、蛇のように畳の上を這って、一端は、違い手の小柱に固く結んであった。室には、ほかに誰も人はいないので
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