釘抜藤吉捕物覚書
宙に浮く屍骸
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)紺碧《こんぺき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)貴賤|小豆粥《あずきがゆ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]
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一
空はすでに朝。
地はまだ夜。
物売りの声も流れていない。
深淵を逆さに刷くような、紺碧《こんぺき》のふかい雲形――きょう一日の小春日を約束して、早暁《あかつき》の微風は羽毛のごとくかぐわしい。
明け六つごろだった。朝の早い町家並びでも、正月いっぱいはなんと言っても遊戯心地《あそびごこち》、休み半分、年季小僧も飯炊きも、そう早くから叩き起されもしないから、夜が明けたと言っても東の色だけで、江戸の巷《まち》まちには、まだ蒼茫たる暗黒《やみ》のにおいが漂い残っていた。
昼から夜になろうとする誰《た》そや彼、たそがれの頃を、俗に逢魔《おうま》が刻といって、物の怪《け》が立つ、通り魔が走るなどといいなしているが、それよりもいっそう不気味な時刻は、むしろこの、夜から昼に変ろうとする江戸の朝ぼらけ――大江戸という甍《いらか》の海が新しい一日の生活にその十二時の喜怒哀楽に眼覚めんとする今それは、眠っていた巨人が揺るぎ起きようとする姿にも似て、巷都《まち》を圧す静寂《しじま》の奥に、しんしんと底唸りを孕《はら》んでいるかに思われる。いわば、長夜の臥床《ふしど》からさめようとする直前、一段深く熟睡《うまい》に落ち込む瞬間がある。そうした払暁《あさ》のひとときだった。
この耳に蝋を注ぎ込んだようなしずけさを破って、
「桜見よとて名をつけて、まず朝ざくら夕ざくら――、」例の勘弁勘次の胴間声《どうまごえ》が、合点長屋の露地に沸いた。「えい、えい、どうなと首尾して逢わしゃんせ、とくらあ。畜生め! 勘弁ならねえ。」
綽名の由祖《ゆらい》の「勘弁ならねえ」を呶鳴り散らしている勘弁勘次――神田の伯母から歳暮《くれ》に貰った、というと人聞がいいがじつは無断借用といったところが真実らしい、浅黄に紺の、味噌漉し縞縮緬の女物の紙入れを素膚《すはだ》に、これだけは人柄の掴み絞りの三尺、
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