そと》に見入った。
 湿った闇黒が、音を立てて流れ込んで来て、藤吉は、屋棟を過ぎる風の音を、聞いた。
 いつの間にか、黒い風が出ていた。
 七日前の晩と同じ、ひどい烈風《かぜ》だ。大川の水が、石場の岸に白く泡立っていた。柳が、枝を振り乱して、陰惨な夜景である。この番所の一軒家は、突風に踏みこたえて、戸障子が、悲鳴を揚げているのだ。斬られるような、寒気だ。それが、河風に乗って迫って来た。積み石を撫でる柳枝の音が、遠浪のように、おどろおどろしく耳を噛んだ。おこうは窓のまえを動かない。
 冷えた肩を硬張らせた惣平次は、その、老妻《つま》の背後《うしろ》すがたに眼を凝らして、ちょこなんと、坐ったきりだ。
 諦めたらしく、おこうが窓を締めて、炉ばたへ引っ返そうとした時である。
 野猿梯子が、ぎしと軋《きし》んで、つづいて、壁の中を掠めて、鼠が騒いだ。行燈の油が足りなくなったのか、圧迫的なうす暗がりが、四隅から、絞ってきていた。
 戸を、そとから叩く音がするのだ。三人の顔が、合った。いっしょに、戸のほうを向いて、おこうが、
「何でしょう――。」
 惣平次は、ちら、ちらと、藤吉へ眼を走らせて、
「鼠だ。」
 戸を叩く音が、高くなった。
「庄太郎です! 庄公が来た、おう! 庄公が来た。」
 おこうが、叫んで、跣足《はだし》で、土間へ駈け下りた。
「おうお、庄太かい。いま開けるよ。今あけるよ。」
 割れるように戸を叩く音が、家じゅうに響いた。すると、惣平次は、その怪しい場面が、たまらなくなって来たのだ。頭部を砕いた庄太郎が、墓へ埋めたままの姿で、いまここへはいって来ようとしている、竜手様に呼ばれて――。惣平次は、わが子ながら、その妖怪庄太郎の帰宅が、恨めしかった。厭わしかった。入れてはならない。そんな気がして、また、藤吉を見やると、藤吉の視線も、いつになく戦《おのの》いて、同じ意味を返事《かえ》して来た。
 おこうの手が、戸にかかって、がたぴし開こうとしている。そとに立って、戸を叩いている「物」の、白い着衣――経帷子《きょうかたびら》が風にひらひらして、見えるのだ。惣平次は、一直線に土間へ跳んで、おこうを押し退けようとした。が、おこうが、「何をするの! 寒いお墓から来たんじゃないか。五本松の浄巌寺から――庄太郎なんだよ! 庄太が来てるんですよ!」
 戸にしがみついて、また、一、二寸引き開けた。同時に、どんと一つ、戸外から、大きく戸が叩かれた。
 戸は、開こうとしている。惣平次は、六畳を這い廻って、手探りに、竜手様を捜しているのだ。戸が開くまでに、右手に握りさえすれば――あった! 戸が、あいた。
「さあさ、庄太郎や、おはいり、寒かったろうねえ。」
 このおこうの声を消して、惣平次が、竜手様をかざして、三つめの、最後の願いを呶鳴った。
「庄太が元の墓場へ帰りますようにッ!」
 藤吉は戸へ走って覗いたが、重い風が飛び込んで来て、炉の火を煽《あお》っただけで、そとには、誰もいなかった。



底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング