久住の様子が、いかにも真面目なので、三人は、笑えなかった。
 口のまわりを硬張らせて、くすぐったそうな表情をした。
 真剣を装って、庄太郎が訊いた。
「竜の手って、ほんとに、あの、竜の手なんですかい。」
「さよう。竜手様は、竜の手でござる。」
「竜に、手があるかなあ――。」
 久住は、答えなかった。
 庄太郎は、露骨に、冷笑《ひや》かすような口調を帯びて、
「一人につき三つだけ、何でも願いごとをかなえて下さる。ふん、どうです。旦那は、何か三つ、お願いにならねえんですかい。」

      三

 たしなめるような眼で、庄太郎を見据えた久住は、
「いかにもわしは、わしの分を、三つだけお願い申した――そして、かなえられました。」
 重々しく答えて、白い額部《ひたい》になった。
「ほんとに、三つお願いになって、三つとも、聞き入れられたのでござりますか。」
「さよう。」
「ほかに誰か、願った人は――。」
「拙者の以前《まえ》に持っておった者が、やはり三つの願をかけて、それも三つとも応《かな》ったとか聞き及んでおるが――。」
 風が、渡って、沈黙のあいだをつないだ。大川の水音が、壁のすぐ向うに、聞えていた。
「ふうむ。」惣平次は腕を組んで、「三つしか願えぬなら、旦那には、もう用のない品でござりますな。いかがでございましょう。わたくしめに、お譲り下さりませんでしょうか。」
 久住は、その、不思議な形をした、牛蒡《ごぼう》とも見える、魚の乾物のようなものを、しばらく、指で挾んでぶら下げて、何かしきりに考えていたが、いきなり、ぽいと、火の中へ抛《ほう》り込んで、
「焼いたがいい。」
 あわてた惣平次が、
「お捨てになるなら、いただいておきましょう。」
 手で、素早く掴んで、じぶんの膝へ投げ取ると、久住は、じっと深い眼をして、その惣平次と竜手様を見較べながら、
「わしは、もういらぬ。が、あんたも、お取りなさらぬがいい。悪いことは、言わぬ。お焼きなされ。」
「願いごとをするには、どうすればよろしいので――。」
 惣平次が、訊いた。
「竜手様を、右手に、高く捧げて、大声に願を唱《とな》えるのじゃ――が、言うておきますぞ。どんなことがあっても、拙者は、知らん。」
 もう一度、調べるように、手の竜手様を眺めている惣平次へ、久住は、つづけて、
「願うなら、何か尋常な、分相応《ぶんそうおう》のことを願いなさるがいい。くれぐれも、滅茶を願うてはなりませぬぞ。」
「お大名になりたいなどと――。」
 親子三人は、声を合わせて笑ったが、久住は、苦渋な顔で、自在鉤《じざいかぎ》の鉄瓶から、徳利を掴み出して、じぶんで注いだ。
 明朝早く出発して、豊後への帰国の途につく――そういって、大小をうしろ気味に差した久住は、いつもよりすこし早めに、風に抗《さか》らってかえって行った。
 送り出して、三人が炉ばたへ帰ると、
「父《ちゃん》!」庄太郎が、にやにやして、「いいものが手に入ったぜ。さあ、これからおいらの家は、金持ちになる。おいらなんか、お絹《かいこ》ぐるみで、あっはっはっは――。」
 大の字に引っくり返って、爆笑《わら》った。
「竜手様さまと来らあ! 竜の手だとよ、うふっ、利いた風なことを言っても、田舎ざむれえなんて、下らねえ物を持ち廻りやがって白痴《こけ》なもんだなあ。」
 惣平次は、懐中の竜手さまを取り出して、しげしげと見てみたが、
「こうっ、と。おいらは、何を願うべえかな。」
 ふざけ半分の、わざと真面目な顔で、おこうを見た。
 庄太郎[#「庄太郎」は底本では「床太郎」]が、代って、
「百両!――父、百両の現金《げんなま》を祈りねえ。」
 惣平次は、照れたように微笑って、その、竜の手という、汚ない乾物のようなものを、右手に高くさし上げた。
 そして、おこうと庄太郎が、急に、謹んだような顔を並べている前で、大声に、呶鳴った。
「竜手様へ、なにとぞわしに、百両の金を下せえまし。お願え申しやす――。」
 言い終らぬうちに、惣平次は、竜手様を投げ捨てて、躍り上って叫んだ。
「わあっ! 動いた! うごいた! 竜手様が動いた!」
 びっくり駈け寄った妻と息子へ、蒼くなった顔を向けて、
「おい、動いたぜ、おれの手の中で。」
 と、不気味げに、自分の手から、畳に転がっている竜手様へ、眼を落した。
「おれが願え事を唱えると、蛇みてえに曲って、手に巻きつこうとしたんだ。」
「だが、父、百両の金は、まだ湧いて来ねえじゃねえか。」庄太郎は、どこまでも嘲笑的に、「へん、こんなこって百両儲かりゃあ、世の中に貧乏するやつあねえや。畳の隙からでも、小判がぞろぞろ這い出すところを、見てえもんだ。竜の手などと、人を喰ってるにもほどがあらあ。」
「気のせいですよ、お爺さん。そんなからから[#「からから」に傍点]の乾ものが、ひとりで動くわけがないじゃありませんか。」
「まま、いいや。」惣平次は、口びるまで白くしていた。「動くわけのねえ物がうごいたんで、ちょいとびっくりしたんだ。おいらの気のせいってことにしておくべえ。」
 夜が更けて、狭い家のなかに、斬るような寒気が、迫って来ていた。烈風は、いっそう速度をあつめて、戸外に積み上げた石を撫でる柳枝《やなぎ》の音が、遠浪の崩れるように、おどろおどろしく聞えていた。
 三人は、消えかかった炉の火を囲んで、しばらく黙りこくっていたが、やがて、日常の家事のはなしになって竜手様《りんじゅさま》のことは、忘れるともなく、忘れた。
 要するに、一時の座興である。
 寝につくことになって、老夫婦は、二階へ上る。庄太郎は、階下の炉ばたに、自分の床を敷き出す。
 竜手様は、部屋の隅の、茶箪笥の上へ置いて。
 野猿梯子《やえんばしご》を上って行く惣平次へ、庄太郎[#「庄太郎」は底本では「床太郎」]が、またからかい半分に、
「父よ、おめえの床ん中に、百両の金が温まってるだろうぜ、ははははは。」
 惣平次は、妙にむっつりして、にこりともせず二階へ消えた。

      四

 日光が、風を払って、翌朝は、けろりとした快晴だった。
 藍甕《あいがめ》をぶちまけたような大川の水が、とろっと淀んで、羽毛《はね》のような微風と、櫓音と、人を呼ぶ声とが、川面を刷いていた。
 お石場にも、朝から、陽がかんかん照りつけて、捨て置きの切り石の影は、むらさきだった。
 雑草が、土のにおいに噎《む》せんで、春のあし音は、江戸のどこにでもあった。
 そんな日だった。
 前夜の、理由のない恐怖と妖異感は、陽光が溶かし去っていた。階下の茶箪笥の上の竜手様は、金いろの朝日のなかで、むしろ滑稽に見えた。
 手垢と埃塵《ごみ》によごれて、小さく固まっている竜の手――忘れられて、馬鹿ばかしく、ごろっと転がっていた。
 朝飯の食卓だった。
 庄太郎は、この一つ目からすぐ傍の、弥勒寺《みろくじ》まえ、五間堀の逸見《へんみ》若狭守様のお上屋敷へ、屋根の葺きかえに雇われていて、きょうは、仕上げの日だ。急ぐので、中腰に、飯をかっこんでいた。
 おこうが、味噌汁をよそいながら、
「つぎの仕事は、もう当りがおつきかえ。」
「親方のほうに、話して来ているようだ。」
 惣平次も、口いっぱいの飯の中から、
「庄公はまだ、瓦職とは言っても、下から瓦を運ぶ組だろう。なかなか屋根へは上げてくれめえ。もっとも、高えところへ上って、瓦を置くようになりゃあ一人前だが――。」
「冗談いっちゃあいけねえ。今度の仕事から、どんどん上へあがって、瓦を並べていらあ。おらあ何だとよ、手筋がいいとよ。親方が、そ言ってた。」
「そうか。この野郎、そいつあ鼻が高えぞ。しかし職人の中で、この瓦職なんざあ豪気なもんよな。殿様が下をお通りになっても、こう、上から見おろして――まったく、家のてっぺんの仕事だからな。床柱を削る大工《でえく》といっしょに、昔から、まず、諸職の上座に置かれてらあ。」
 惣平次が、おこうを見ると、おこうは、誇らし気な眼を、庄太郎へやった。
「うんにゃ、おいらなんざあ、駈け出しだから――。」
 庄太郎は、得意に、微笑して、丈夫な音を立てて沢庵を噛んでいた。
 おこうが、惣平次に、
「十日ばかり、ぱっとしない日が続いたねえ。お洗濯がたまって、大事《おおごと》だよ。」
「手隙を見て、おれが乾してやろう。」
 もう起ち上って、庄太郎は、法被《はっぴ》に袖を通した。突っかけ草履で、土間を戸口へ、
「父《ちゃん》は、今日は、暇かえ。」
「ひまでもねえが、この二、三日、お石舟のお触れもねえから、揚げ石もあるめえと思うのだよ。」
「まあ、石場で、日向ぼっこでもしていなせえ。晩、帰りに、安房屋《あわや》の煮豆でもぶら提げて来らあ。」
 思い出して、おこうが言った。
「ゆうべのように風の強い晩などは、なんでもないようでも、やっぱり、心持ちがどうかしているとみえるねえ。馬鹿らしいことを、ちょっと真に受けたりして――。」
 惣平次が、訊いた。
「何だ。」
「竜の手さ。竜手さま、とか――。」
「あはははは、おらあ、すっかり忘れていた。」茶箪笥を振り返って、「百両、百両――。」
「そうだ。」庄太郎も、半分戸ぐちを出ながら、「昨夜《よんべ》の百両は、まだ授からねえじゃねえか。今にも、ばらばらっ! と、こう、天から降って来るかもしれねえぜ。」
 妻と息子と、二人にひやかされて、惣平次は、人のよさそうな微笑《わらい》を笑った。
「だが、この天気だ、久住さんも、およろこびで早発足《はやだち》なすったろう――百両か。なあに、おらあその内に、ひょっこり浮いて出ると思ってる。なるほどというような廻り合わせで、手に入るんだ。それに違えねえ。」
 と、また、竜手様へ視線を向けると、庄太郎は、
「ははははは、そのことよ。気長に待ちねえ。じゃ、行って来るぜ。」
 踊るように弾む若いからだが、石場を通り抜けて、一つ目橋の袂から、往来へ出て行った。
 おこうは食事のあと片付け、それから、家の中のこまごました女の仕事に、取りかかる。ひとまわりお石場を掃いて来て、惣平次は、陽の射し込む土間に足を投げ出して、手網の繕《つくろ》いだ。
 白昼《まひる》の一刻一ときが、寂然《しいん》と沈んで、経ってゆく。
 もうあの、竜手様のことなど、老夫婦のあたまのどこにもなかった。
 庄太郎は、弁当を持って行って、午飯《ひる》には帰らない。
 正午だ。惣平次とおこうが、さし向かいで、茶漬けを流し込む。
 食休みに、雑談になって、おこうが、
「お前さんどう考えているか知らないけれど、庄太郎に、もうそろそろねえ――。」
「嫁の心配かえ。」
「早すぎるってことはありませんよ。心掛けておかなければ、ほかのことと違って、こればかりは、急に、おいそれとは、ねえ。」
「そうだ――しかし、早えもんだなあ。昨日|蜻蛉《とんぼ》を釣っていたように思う庄公が、もう嫁のなんのと、そのうちに初孫だ。婆さん、めでてえが、おれたちも、年齢を取ったなあ。」
「ほんとにねえ。それにつけても、庄太郎は働き者だけに、いっそう早く身を固めてやったほうがよくはないかと、わたしゃ思いますよ――おや! なんでしょう?」
 突然、石場を飛んで来る二、三人の乱れた跫音が、耳を打った。
 ふり向く間もなかった。
 開け放しの土間ぐちを、人影が埋めて、走りつづけて来たらしく、迫った呼吸が、家じゅうにひびいた。
 庄太郎の親方の、瓦長、瓦師長五郎と、二、三人の弟子だ。うしろから、用人らしい老人の侍が割り込んで来ようとしていた。
 呑みかけの茶碗をほうり出して、惣平次は、突っ立った。おこうも、上り框《がまち》へいざり出て、
「何でござります、何事が起りました。」
 長五郎は、鉢巻を脱って、ぐいと額の汗を拭いながら、やっと、声を調《ととの》えた。
「何とも、誰の粗相《そそう》でもねえんで――運でごわす。」
 惣平次夫婦は、唾を飲んで、奇妙に無関心に、黙っていた。
 弟子の一人が、興奮した声だ。
「おらあ見ていたんだが、足が辷って、真っ逆さまに落ちたもんだ。下
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