釘抜藤吉捕物覚書
悲願百両
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)闇黒《やみ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)久住|希《き》十郎
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)針のめど[#「めど」に傍点]が
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一
ひどい風だ。大川の流れが、闇黒《やみ》に、白く泡立っていた。
本所、一つ目の橋を渡りきった右手に、墓地のような、角石の立ち並んだ空地が、半島状に、ほそ長く河に突き出ている。
柳が、枝を振り乱して、陰惨な夜景だった。三月もなかば過ぎだというのに、今夜は、ばかに寒い。それに、雨を持っているらしく、濡れた空気なのだ。
その、往来からずっと離れて、水のなかへ出張っている岸に二階建のささやかな一軒家が、暴風に踏みこたえて、戸障子が悲鳴を揚げていた。
腰高の油障子に、内部《なか》の灯がうつって、筆太《ふでぶと》の一行が瞬いて読める――「御石場番所」
水戸様の石揚場なのである。
番所の階下《した》は、半分が土間、はんぶんが、六畳のたたみ敷きで、炉が切ってある。大川の寄り木がとろとろ燃えて、三人の顔を、赤く、黒く、明滅させている。大きな影法師が、はらわたの覗いている壁に倒れて、けむりといっしょに、揺らいでいた。
番小屋のおやじ惣平次《そうへいじ》と、ひとり息子の庄太郎とが、炉ばたで、将棋をさしているのだ。母親のおこうは、膝もと一ぱいに襤褸《ぼろ》を散らかして、つづくり物をしながら、
「年齢《とし》はとりたくないね。針のめど[#「めど」に傍点]が見えやしない。鳥目《とりめ》かしら――。」
ひとりごとを言いいい、糸のさきを噛んだ。
いきなり惣平次が、白髪あたまを振った。癇癪《かんしゃく》を起したのだ。盤をにらんで、ぴしりと、大きな音で、駒を置いた。
「えれえ風だ。吹きゃあがる。吹きゃあがる。風のまにまに――とくらあ。どうでえ庄太、この手は。面《つら》ああるめえ。」
「庄太、しょた、しょた、五人のなかで――。」
庄太郎は、「酔うた、酔た、酔た」をもじって、低声《こごえ》に唄った。持ち駒を、四つ竹のように、掌の中で鳴らした。
そして、炭のように黒いであろう戸外の闇を、ちょっと聴くような眼つきになって、
「なあに――。」
「おっと! こりゃあ! いや、風にもいろいろあってな、吹けよ、川風、上れよ、すだれ、の風なんざあ粋だが――おい、庄太、手前、砂利舟は、しっかり舫《もや》ったろうな。」
惣平次は、いま打った駒で、取り返しのつかなくなった盤面《ばん》を庄太郎に気づかれまいとして、何げなく、ほかの話をしかけて注意を外らすのにいそがしかった。
が、庄太郎は、二十三の青年らしい、ほがらかな微笑をひろげていた。
「うふっ! 父《ちゃん》、すまねえが、おらあ勝ってるぜ。」
ごろっと、後頭部へ両手をまくらに、引っくり返った。
「出直せ、出なおせ。」
「この風だ。今夜はお見えになるまいて。」
盤の駒をあつめながら、惣平次が、いった。
おこうが、
「久住《くずみ》さんかい。」
針を休めて、訊くと、
「なんぼあの旦那が物好でも、こんな大風の晩に出歩くこたあねえからな。」惣平次は、将棋に負けたので、八つ当り気味に、「おらあ好かねえよ。稼業たあ言い条、こんな石場の突鼻に住んでるなんざあ、気の利かねえはなしだ。まるでお前、なんのこたあねえ。千川っぷちの渡守りみてえなもんじゃあねえか。御近所さまがあるじゃあなし、何があったって早速の間にゃあ合やしねえ。ああ嫌だ、嫌だ。この年齢になって石場の番人なんて、外聞《げえぶん》が悪くて、人に話もできやしねえ――。」
おこうは取り合わずに、
「また愚痴がはじまったね。まあ、いいじゃないか。もう一ぺん将棋をおさしよ。今度はお前さんが勝つだろうから、それで機嫌を直すんだね。」
息子の庄太郎が、むっくり起き上って、
「ほんとだ。父《ちゃん》もおふくろも、もうすこし辛抱していてもらえてえ。おいらが一人前の瓦職になるまであ、ま、隠居仕事だと思って、この石場の番人をつとめていてくんねえよ。なあに、おいらだって、いつまでもこのまんまじゃあいねえつもりだ。おっつけ親方の引き立てで、相当の人区《にんく》を取るようになる。そうすりゃあ、父にもおふくろにも、うんと旨《うめ》えものを食わして、楽をさせてやらあ。」
急にしんみりと、おこうは、涙ぐんで老夫《おっと》を見た。
「庄太が、まあ、あんなたのもしい口をきくじゃあないか。いい若い者で、悪遊びに一つ出るじゃあなし、――あたしゃなんだか、泣かされましたよ。」
「やい、庄公。」惣平次も気を取り直して、「こりゃあおやじが悪かった。てめえのような評判の孝行息子を持ちながら、不平《こ
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