から」に傍点]の乾ものが、ひとりで動くわけがないじゃありませんか。」
「まま、いいや。」惣平次は、口びるまで白くしていた。「動くわけのねえ物がうごいたんで、ちょいとびっくりしたんだ。おいらの気のせいってことにしておくべえ。」
夜が更けて、狭い家のなかに、斬るような寒気が、迫って来ていた。烈風は、いっそう速度をあつめて、戸外に積み上げた石を撫でる柳枝《やなぎ》の音が、遠浪の崩れるように、おどろおどろしく聞えていた。
三人は、消えかかった炉の火を囲んで、しばらく黙りこくっていたが、やがて、日常の家事のはなしになって竜手様《りんじゅさま》のことは、忘れるともなく、忘れた。
要するに、一時の座興である。
寝につくことになって、老夫婦は、二階へ上る。庄太郎は、階下の炉ばたに、自分の床を敷き出す。
竜手様は、部屋の隅の、茶箪笥の上へ置いて。
野猿梯子《やえんばしご》を上って行く惣平次へ、庄太郎[#「庄太郎」は底本では「床太郎」]が、またからかい半分に、
「父よ、おめえの床ん中に、百両の金が温まってるだろうぜ、ははははは。」
惣平次は、妙にむっつりして、にこりともせず二階へ消えた。
四
日光が、風を払って、翌朝は、けろりとした快晴だった。
藍甕《あいがめ》をぶちまけたような大川の水が、とろっと淀んで、羽毛《はね》のような微風と、櫓音と、人を呼ぶ声とが、川面を刷いていた。
お石場にも、朝から、陽がかんかん照りつけて、捨て置きの切り石の影は、むらさきだった。
雑草が、土のにおいに噎《む》せんで、春のあし音は、江戸のどこにでもあった。
そんな日だった。
前夜の、理由のない恐怖と妖異感は、陽光が溶かし去っていた。階下の茶箪笥の上の竜手様は、金いろの朝日のなかで、むしろ滑稽に見えた。
手垢と埃塵《ごみ》によごれて、小さく固まっている竜の手――忘れられて、馬鹿ばかしく、ごろっと転がっていた。
朝飯の食卓だった。
庄太郎は、この一つ目からすぐ傍の、弥勒寺《みろくじ》まえ、五間堀の逸見《へんみ》若狭守様のお上屋敷へ、屋根の葺きかえに雇われていて、きょうは、仕上げの日だ。急ぐので、中腰に、飯をかっこんでいた。
おこうが、味噌汁をよそいながら、
「つぎの仕事は、もう当りがおつきかえ。」
「親方のほうに、話して来ているようだ。」
惣平次も、口いっぱい
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