った者はごぜえません。あっしは、裏ぐちにすわりっきりで、円枝さんの下駄の鼻緒が切れたんで立ててあげておりましたが――。」
 楽屋番の銀兵衛がもう一度そう繰り返したが、藤吉は、聞いていそうもない様子だった。じぶんの胸元を覗き込むようにうつむいて、かれはしきりに爪を噛んでいるのだ。
 大石武右衛門は、見るとおりに、それこそ牡牛を三匹合わせたほどの、大兵肥満の男である。それに、いまこの柳江亭の人気を一身にあつめている、前代未聞の力業師なのだ。その大石武右衛門が高座を下りて、一本の蝋燭の光を背中に浴びながら狭いまっすぐな廊下を通って溜りのほうへ帰って行こうとしていると、途中で、何者かが武右衛門の頸部へ綱を捲きつけて、――あっという間に、見事にこの大漢《おおおとこ》を絞殺したのだった。
 信じられない。この力持ちが、そうやすやすと絞め殺されようとは、これは、八丁堀合点長屋の親分釘抜藤吉でなくても、常識のある人間なら、誰しも受け取れないところである。しかも、その時、高座のすぐ裏、細廊下の横隣りの、一段高くなっている出を待つ部屋に、人形つかいの竹久紋之助と三味線引きのおこよが、二人で話し込んでいただけで、見とおしのきく廊下には人っ児ひとりいなかったというのだ。これは、事件のすぐあと、つまり武右衛門が倒れて間もなく、恐らくは、一、二、三、四、五、六――とは数えないうちに、客席から廊下へはいって来た出方の藤吉の証言である。そして、今また、楽屋口で芸人の下足番をしている銀兵衛が、これに裏書きするように、誰も廊下を通って裏へ出て行ったものはないと断言しているのだ。ことに、不思議なのは、廊下へはいって来ると一拍子に、出方の藤吉の見たという、障子に躍って消えた影である――。
 人はいないのに、高座の上り口にある蝋燭の灯りを受けて、その影法師だけが、障子にうつっていたという。
 たしかに、はっきり見たと出方の藤吉は主張するのだが、それは、普通人の大きさの人かげで、厚い着物を着て、袴をはいたように、ふくれ返って見えた。大きな髷に結って、傴僂《せむし》のようだったとも言っている。何か糸のようなものを持っていたと、男衆藤吉はいうのだが、すべては、はっと思った一瞬間の印象で、閃めくように障子をかすめて消えたのだから、もとより、こまかに話すとなると、至極漠然たるもので、夢の想い出の又聞きのようなことにな
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