「しかし、影だけで、人はたしかにいませんでしたよ。」
「そりゃあお前。」藤吉である。
「この武右衛門さんの影じゃあなかったのかな。」
「冗談じゃあねえ。」
 出方の藤吉は、自分の証言を守るために一生懸命になっていた。
「そん時ぁもう、武右衛門さんはこのとおりここに倒れていたんで。」
「じゃあ、その影のことを、もそっと詳しく話してみな。」
「へえ。ようがすとも!――と言ったところで、なにしろとっさの出来事だったんで、どうもぼんやりしたお話で困りやすが、なんですよ親分さん、影はね、傴僂《せむし》のようでしたよ。」
「せむし――?」
「ええ。大きな髪を結って、手に何か持っていやした。」
「何を持っていた。」
「何だか知らねえが、糸のような物を持っているのが見えたんで――。」
 みな黙って、交る代る顔を見合っていた。割れるような拍手が聞こえて来て、つづいてまた唄と三味線がはじまって、しいんとなった。
「無理もねえ。」藤吉は、しずかに、「影じゃあそんなところまでわかるわけはねえからの。ことに、ちょっと間、ちらと眼にうつっただけじゃあ、これは、細けえことは訊くほうが唐変木《とうへんぼく》よなあ。」
「しかし親分、どうして人がいねえで、影だけ見えたんでごわしょう。」
「さあ、そのことよ――。」
「紋之助とおこよは、」彦が部屋を覗いて、「いねえ。どこへ行った――?」
 幸七が答えた。
「この裏に、高座へ出る前に衣裳を直す部屋がありましてね、出の時刻が迫ると、みなそこへはいりますから――呼んで来ましょうか。」
「いや、いい。」藤吉が停めた。
「その化粧部屋へは、廊下を通らずに行かれるんですかい。」
「はい。ここへ下りずに、向うの唐紙をあけるとすぐのところでございます。」
「武右衛門は、高座から来て間もなく、この廊下を通りながら殺られたんだね。」
「へえ。高座を下りる。ここまで来かかる。ほんのちょっとの間のことで。」
「おこよと紋之助さんは、稽古の話に気を取られていて、障子のそとの廊下で武右衛門が倒れるのを知らずにいた――。」
「そりゃあ親分、ちょうど出の代り、梅の家連が高座へ上った時分で、ここは一番お囃《はや》しの鳴物がやかましく聞こえるところだから、ちっとやそっとの騒ぎは耳にはいりませんよ。まして、話に夢中のようだったからね。」
「そりゃあそうだな。こうっと、高座を下りて来る。す
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