常吉に案内させて通って行った。
 不時の出来事のために気も転倒している家中の人々は、寒そうに懐手をした二人を見ても、挨拶どころか眼にも入らないように見受けられた。何か大声に怒鳴りながら店と奥とを往ったり来たりしている白鼠を、あれが大番頭の喜兵衛だなと藤吉は横目に睨んで行った。近い親類の者も駈けつけたらしく、広い家のなかはごった[#「ごった」に傍点]返していた。何か不審の筋でもあるとすれば、調べをつけるのにこの騒動は勿怪《もっけ》の幸いと、かえって藤吉は心のなかで喜んだのだった。
 白壁の蔵に近く、木造の一棟が縊死のあった茶の置場であった。さっきの仙太郎が蒼い顔をして入口に立ち番をしていた。近所や出入りの者がまだ内外に立ち騒いでいたが、折柄はいって来た三人を見ると、申し合わせたように皆口を噤《つぐ》んで、かかり合いを恐れるかのように逃げるともなく出て行ってしまった。
「徳撰。」と筆太に墨の入った提灯の明りに照らし出されて、天井の梁から一本の綱に下がっているのは、紛れもない此家《ここ》の主人徳村撰十の変り果てた姿であった。
 生前お関取りとまで綽名《あだな》されていただけあって、大兵肥満の撰十は、こうして歳暮《せいぼ》の鮭のように釣り下がったところもなんとなく威厳があって、今にも聞き覚えのある濁《だ》み声で、
「合点長屋の親分でげすかえ。ま、ちょっくら上って一杯|出花《でばな》を啜っていらっしゃい。」
 とでも言い出しそうに思われた。それが一つのおかしみのようにさえ感じられて、前へ廻って屍体を見上げたまま、藤吉はいつまでも黙りこくって立っていた。昨夜見た時はぴんぴん[#「ぴんぴん」に傍点]していた人のこの有様に、諸行無常生者必滅とでも感じたものか、鼻汁《はな》を手の甲へすりつけながら、彦兵衛も寒々と肩を竦《すぼ》めていた。梁へ掛けた強い綱が、重い屍骸を小揺ぎもさせずに静かに支えていた。東寄りの武者窓から雪の手伝った暁の光が射し込んで、屍体の足の下に、その爪先きとほとんどすれすれに、宇治[#「宇治」に傍点]と荷札を貼った茶の空箱が置かれてあるのが、浮かぶように藤吉の眼に入った。
「見込みが外れて、捌《さば》けが思うようにつかねえと、じつは昨日朝湯で顔を合した時も、それをひどく苦に病んでおいでのようだったが、解らねえもんさね、まさかこんなことになろうたあ、――あっしも――。」
 と言いかけた常吉の言葉を取って、
「何ぞほかに自滅の因《もと》と思い当たるような筋合いはありませんかね。頭《かしら》はこの家とは別して近しく出入していたようだが。」
 と藤吉は眠そうに装って相手の顔色を窺った。
「さあ――。」と常吉は頭を掻いた。
「なにしろ、お内儀《かみ》さんが三年前の秋に先立ってからというものは、旦那も焼きが廻ったかして、商売の方も思わしくなく内証もなかなか苦しいようでしたよ。が、こんな死様《しにざま》をしなけりゃならねえ理由《わけ》も――あったようにゃあ思われねえが――いやこうと言っちゃなんだが、例の、そら、奥州路の探しものにさっぱり当たりがつかねえので、旦那もしじゅうそれが白髪《しらが》の種だと言い言いしていましたがね。」
 藤吉は聞耳を立てた。
「それが、その奥州路の探し物ってなあ何だね。まさか、飛んだ白石噺《しろいしばなし》の仇打ちという時代めいた話でもあるめえ。」
「すると、まだ親分は徳松さんの一件を御存じねえと言うんですかい。」
 と常吉は呆れて見せた。
「初耳ですね。」と藤吉は嘯《うそぶ》いた。
「いったいその徳松さんてのはどこのどなたですい?」
「話せば永いことながら――。」
 根が呑気な常吉はこうした場合にもこんなことを言いながら、少し調子づいて藤吉の顔を見詰めた。それを遮るように藤吉は手を振った。
「ま、後から聞きやしょう。死人《しびと》を前に置いて因果話《いんがばなし》もぞっ[#「ぞっ」に傍点]としねえ。それより――おい、彦。」
 と、彼は傍に立っている彦兵衛を返り見た。
「お前《めえ》ちょっとここへ上って、仏を下ろしてくんねえ。御検視が見えるまでぶら[#「ぶら」に傍点]下げておくがものもあるめえよ。」
 言いながら屍骸の真下にある宇治の茶箱を顎で指した。恐らくこれを台にして死の首途《かどで》へ上ったらしいその空箱が、この場合そのまますぐ役に立つのであった。
 無言のまま彦兵衛は箱の上に立って、両手を綱の結び目へ掛けた。二、三歩後へ退って二人はそれを見上げていた。力を込めているらしいものの、綱はなかなか解けなかった。屍体の両脚を横抱きにして、藤吉は下からそっ[#「そっ」に傍点]と持ち上げてやった。死人の顔と摺れ合って、油気のない頭髪が額へかかってくるのをうるさそうにかきのけながら、彦兵衛は不服らしく言った。
「畜生、なんてまた堅えたま[#「たま」に傍点]を拵えたもんだろう。」
 その時だった。
「解けねえか。よし、糸玉《たま》の上から切ってしまえ。」
 と、藤吉の言葉の終らない内に大きな音を立てて、箱が毀れると、痩せた彦兵衛の身体が火箸のように二人の足許へ転がり落ちた。思わず手を離した藤吉の鼻さきで、あたかも冷笑するかのように、縊死人の身体が小さく揺れた。箱の破片《こわれ》を手にしながら、異常に光る視線を藤吉は、今起き上って来た彦兵衛へ向けた。
「吹けば飛ぶような手前《てめえ》の重さで毀れる箱が、どうしてこの大男の足場になったろう。しかも呼吸が停まるまでにゃ、大分箱の上でじたばた[#「じたばた」に傍点]したはずだが――。」
「自滅じゃねえぜ、親分。」
 と言う彦兵衛を、
「やかましいやい。」
 ときめつけておいて藤吉は、
「今見たようなわけで、わしにはちっ[#「ちっ」に傍点]とばかし合点の行かねえところがある。旦那方が来ちゃ面倒だ。頭《かしら》、梯子を持って来て屍骸《しげえ》を下ろしておくんなせえ。なに、綱は上の方から引っ切ったってかまうもんか。それから、彦、なにを手前はぼやぼやしてやがる。この置場の入口を少し嗅《け》えで見て、その足でお店《たな》の奉公人たちを一人残らず洗って来い。」

      三

 店の者は大番頭の喜兵衛以下飯焚きの老爺まで全部で十四人の大家内だった。が、彦兵衛の調査《しらべ》によると、その内一人として怪しい顔は見当らなかった。薄く地面を覆った雪のためと、それをあわてて踏み躙《にじ》った諸人の足跡のために、置場の入口からもなんの目星い手掛りも得られなかった。
「旦那方、御苦労さまでごぜえます。」
 折柄来合わせた町奉行の同心の下役にこう挨拶すると、頭の常吉を土蔵の前へ呼び出して、藤吉は改めて、徳松一件の続きへ耳を傾けた。
 二十何年か前のことだった。そのころの下町の大店なぞによくある話で、女房のおさえが病身なままに、主人の撰十は小間使のお冬に手をつけて、徳松という男の子を生ませたのであった。なにがしかの手切金を持たせて、母子もろともお冬の実家奥州仙台は石の巻へ帰したのだったが、それからというもの、雨につけ風につけ、老いたる撰十の思い出すのはその徳松の生立ちであった。ただ一代で具足町の名物とまで、店が売り出してくるにつれ、妻の子種のないところからいっそうこの不幸な息子のことが偲ばれるのであった。この徳村撰十という人物は、ただの商人ばかりではなく、茶の湯俳諧の道にも相当に知られていて、その方面でも広く武家屋敷や旗下の隠居所なぞへ顔を出していた。彼のこの趣味も元来《もともと》好きな道とは言いながら寄る年浪に跡目もなく、若いころの一粒種は行方知れず、ことに三年前に女房《つれあい》に別れてからというものは、店の用事はほとんど大番頭の喜兵衛に任せきっていたので、ただこの世の味気なさを忘れようとする一つのよすがにしていたらしいとのことだった。だが、これだけの理由で、このごろは内輪が苦しいとはいうものの、この大店の主人が、書遺き一つ残さずに首を縊ろうとはどうしても思えなかった。
「それで、その、なんですかい。」と藤吉は常吉の話のすむのを待って口を入れた。
「その徳松さんとかってえ子供衆は、今だに行方《ゆきがた》知れずなんですかい。」
「子供と言ったところで、いまごろはあの荷方の仙太郎さんくらいに――。」
 と答えようとする常吉を無視して、ちょうどそこへ水を汲みに来た女中の傍へ、藤吉は足早に進み寄って何ごとか訊ねていたが小声で彦兵衛を呼んでその耳へ吹き込んだ。
「おい、一っ走り馬喰町の吉野屋まで行って、清二郎という越後の上布屋《じょうふや》を突き留めて来てくれ。」
 頷首いた彦兵衛の姿が、台所の薄暗がりを通して戸外《おもて》の方へ消えてしまうと、置場へ引っ返して来た藤吉は、検視の役人へ声を掛けた。
「旦那、こりゃあどうも質《たち》のよくねえ狂言ですぜ。とにかくこの自滅にゃあ不審がありやすから、すこし詮議をさせていただきやしょう。」
「そうか、おれもなんだか怪しいと思っていたところだ。」
 と鬚のあとの青々とした若い組下の同心が、負けない気らしく少し反り返って答えた。
「手間は取りませんよ。なに、今すぐ眼鼻をつけて御覧に入れます。」
 苦々しそうにこう言い切ると、そのまま藤吉は店へ上り込んで、茶室めいた奥座敷へ通ずる濡縁の端へ、大番頭の喜兵衛を呼び出した。二本棒のころからこの年齢《とし》まで、死んだ撰十の下に働いて来たという四十がらみの前掛けは、いかにも苦労人めいた態度《ものごし》で、藤吉の問いに対していちいちはっきりと受け答えをしていた。昨日、三年振りで越後の上布屋清二郎がお店へ顔を見せたということは、さっき女中の話でもわかっていたが、それが、正午前から来て暮れ六つまで居間で主人と話し込み、迫る夕闇に驚いてそこそこに座を立ったというのが、いっそう藤吉の注意を惹いた。
「その時お店は忙《せわ》しかったんですかい?」
 と眼を細めて彼は喜兵衛の顔を見守った。葉茶屋と言っても卸《おろ》しが主なので毎日夕方はわりに閑散なのがどういうものか昨日は、なかなか立て込んでいたという返事に、満足らしく微笑しながら、藤吉はまた質問の網を手繰《たぐ》り始めた。
「その清二郎さんという反物屋は、この三年奥州の方を廻って来たということですが、真実《まったく》ですかい?」
「へい、なんでもそんなことを言って、仙台の鯛味噌を一樽店の者たちへ土産《みやげ》に持って参りました、へい。」
「なるほど。」
 と藤吉は腕を拱《こまぬ》いた。と、中庭の植込みを透かして見える置場の横を顎で指しながら、
「あの小屋へ左手の路地からもへえれますね。」
「大分垣が破れていますから、潜ろうと思えば――。」
 という番頭の言葉をしまいまで待たず、
「旦那は盆栽《ぼんさい》がお好きのようだったから、それ、そこの庭にある鉢植にも、大方自身で水をおやりなすったことでしょう――が、それにしちゃ――。」と藤吉は小首を傾けながら縁端近くの沓脱石《くつぬぎいし》へ眼を落した。
「どこにも庭下駄が見えねえのはどういうわけでごぜえます?」
「おや!」
 と喜兵衛は小さく叫んで庭中を見渡した。
「はははは。」と藤吉は笑った。
「庭下駄は置場にありやすよ。裏っ返しや横ちょになって、隅と隅とに飛んでいるのを、あっしゃあしかと白眼《にら》んで来やした。こう言ったらもうおわかりだろうが、今一つお訊きしてえことがある。ほかでもねえが、海に由緒《ゆかり》のあるところから来ている者が、いってえ何人お店にいますね?」
「さあ――。」
 と番頭はしばらく考えた後、
「まず一人はございますな。」
「喜兵衛さん。」
 と改まって藤吉は声を潜ませた。
「お店から一人繩付きが出ますぜ。」
「えっ。」
 喜兵衛は顔の色を変えた。
「いやさ。」と藤吉は微笑した。
「旦那の喪《ね》え後は、いわばお前さんがこの家の元締め、で、お前さんだけあ、手を下ろす前に耳に入れておきてえんだが、繩付きどころの騒ぎじゃねえぜ。知ってのとおり、喜兵衛さん、主殺しと言やあ、引廻しの上、落ち着く先はおきまりの、差しずめ千
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