んで来た。具足町の葉茶屋徳撰の荷方《にかた》で一昨年の暮れに奥州から出て来た仙太郎という二十二、三の若者だった。桟《さん》へ指を掛けていた藤吉の腕のなかへ、なんのことはない、※[#「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2−78−13]のように彼は転がり込んで来たのだった。急には口もきけないほど、息を弾ませているのが、なにごとかただならぬ事件の突発したことを、ただそれだけで十分に語っていた。半面に白い物の消えかかった顔の色は、戸外の薄明りを受けて、さながら死人のようであった。隙洩る暁の風のためのみならず、さすがの藤吉もぶるっ[#「ぶるっ」に傍点]と一つ身震いを禁じ得なかった。
「朝っぱらからお騒がせ申してすみません。」と腰から取った手拭いで顔を拭きながら、仙太郎が言った。出入り先の徳撰の店でたびたび顔を合しているので、この若者の人普外《ひとなみはず》れて几帳面《きちょうめん》な習癖《くせ》を識っている藤吉は、今その手拭いがいつになく皺だらけなのを見て取って、なぜかちょっと変に思ったのだった。
「誰かと思やあ、仙どんじゃねえか、まあ、落着きなせえ、何ごとが起りましたい?」
「親分、大変でごぜえますよ。」
と仙太郎はおずおず藤吉の顔を見上げた。
「ただ大変じゃわからねえ。物盗りかい、それともなんかの間違えから出入りでもあったというのかい。ま背後の板戸を締めてもらって、あらまし事の次第を承わるとしようじゃねえか。」
言われたとおりに背手に戸を閉めきった仙太郎はまた改めて、
「親分。」
と声を潜めた。この若者の大仰らしさにいささか度胆を抜かれた形の藤吉と彦兵衛は、今は眠さもどこへやら少しおかしそうな顔をして首を竦めていたがそれでも藤吉だけは、
「何ですい?」
と思いきり調子を落して相手に釣り出しをかけることだけは忘れなかった。冷え渡った大江戸の朝の静寂が、ひしひしと土間に立った三人の周囲《まわり》を押し包んだ。どこか遠くで早い一番鶏の鳴く声――戸面《とのも》の雪は小降りか、それとも止んだか。
「親分、旦那が昨夜首を吊りましただよ。」
呆然《ぼんやり》と戸外の気勢《けはい》を覗っていた藤吉の耳へ、竹筒棒《たけづっぽう》を通してくるような、無表情な仙太郎の声が響いた。瞬間、藤吉はその意味を頭の中で常識的に解釈しようと試みた。と、気味の悪いほど突然に、葬式彦兵衛が高笑いを洩らした。
「仙さん、お前寝る前にとろ[#「とろ」に傍点]の古いんでも撮《つま》みなすったか、あいつあよくねえ夢を見させやすからね。はっはっ。」が、おっ被せて仙太郎が色を失っている唇を不服そうに尖らせた。
「夢じゃありましねえ。」
「と言うと?」藤吉は思わずきっ[#「きっ」に傍点]となった。
「ああに、夢なら夢でも正夢《まさゆめ》でごぜえますだよ。旦那の身体がお前さま、置場の梁にぶら[#「ぶら」に傍点]下って。」
「だが、仙さん、お待ちなせえ。」
と彦兵衛はいつになく口数が多かった。
「あっしが昨夜お店の前を通った時にゃあ、旦那は帳場傍の大火鉢に両手を翳《かざ》して戸外《そと》を見ていなすったが――。」
「止せやい。」
と藤吉が噛んで吐き出すように言った。
「その顔に死相でも出ていたと言うんだろう。」
「ところが。」と彦兵衛も負けていなかった。
「死相どころか、無病息災《むびょうそくさい》長寿円満《ちょうじゅえんまん》――。」
「そこで。」
と藤吉は彦兵衛のこの経文みたいな証言を無視して、こまかに肩を震わせている仙太郎へ向き直った。
「お届けはすみましたかい。」
ごくり[#「ごくり」に傍点]と唾を呑み込みながら、仙太郎は子供のように頷首《うなず》いて見せた。
満潮と一緒に大根河岸へ上ってくる荷足《にたり》の一つに、今朝は歳末《くれ》を当て込みに宇治からの着荷があるはずなので、いつもより少し早目に起き出た荷方の仙太郎は、提灯一つで勝手を知った裏の置場へはいって行くと、少し広く空きを取ってある真中の仕事場に、宙を浮いている主人撰十の姿を発見して反《の》けぞるほど胆を潰したのだった。狂人のように家へ駈け込んだ彼は、大声を張り上げて家中の者を起すと同時に、番頭喜兵衛の采配で手代の一人は近所にいる出入りの医者へ、飯焚きの男が三町おいた番太郎の小屋へ、そして発見者たる彼仙太郎はこうして一応繩張りである藤吉の許まで知らせに走ったのであった。
「そうして、なんですかい?」
帯を結び直しながら藤吉が訊き返した。
「旦那方はもうお見えになりましたかい?」
ここへ来るより番屋の方が近いから、役人たちも今ごろは出張しているであろうと答えて、藤吉らもすぐ後を追っかけるという言質《ことぐさ》を取ると、燃えの低くなった提灯の蝋燭を庇いながら、折柄軒を鳴らして渡る朝風のなかを
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