釘抜藤吉捕物覚書
宇治の茶箱
林不忘

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)探《まさぐ》り

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|代《でえ》分限《ぶんげん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2−78−13]
−−

      一

「勘の野郎を起すほどのことでもあるめえ。」
 合点長屋の土間へ降り立った釘抜藤吉は、まだ明けやらぬ薄暗がりのなかで、足の指先に駒下駄の緒を探《まさぐ》りながら、独語のようにこう言った。後から続いた岡っ引の葬式彦兵衛もいつものとおり不得要領《ふとくようりょう》ににやり[#「にやり」に傍点]と笑いを洩らしただけでそれでも完全に同意の心を表していた。しじゅう念仏のようなことをぶつぶつ[#「ぶつぶつ」に傍点]口の中で呟いているほか、たいていの要は例のにやり[#「にやり」に傍点]で済ましておくのが、この男の常だった。そのかわり物を言う時には、必要以上に大きな声を出してあたりの人をびっくりさせた。非常に嗅覚の鋭敏な人間で、紙屑籠を肩に担《かつ》いでは、その紙屑の一つのように江戸の町々を風に吹かれて歩きながら、ねた[#「ねた」に傍点]を挙げたり犯人《ほし》を尾けたり、それに毎日のように落し物を拾って来るばかりか、時には手懸り上大きな獲物のあることもあった。じつは彼の十八番《おはこ》の尾行術も、大部分は異常に発達したその鼻の力によるところが多かった。早い話がすべての人が彼に取っては種々な品物の臭気《におい》に過ぎなかった、親分の藤吉は柚子味噌《ゆずみそ》、兄分の勘弁勘次は佐倉炭、角の海老床の親方が日向《ひなた》の油紙《ゆし》、近江屋の隠居が檜――まあざっとこんな工合いに決められていたのだった。
「なんでえ、まるっきり洋犬《かめ》じゃねえか。くそ[#「くそ」に傍点]面白くもねえ、そう言うお前はいってえ、何の臭いだか、え、彦、自身で伺いを立てて見なよ。」
 中っ腹の勘次はよくこう言っては、癪半分の冷笑を浴びせかけた。そんな場合、彦兵衛は口許だけで笑いながら、いつも、
「俺らか、俺らあただのちゃらっぽこ。」
 と唄の文句のように、言い言いしていた。このちゃらっぽこが果して勘次の推測どおり、唐の草根木皮《そうこんもくひ》の一種を意味していたものか、あるいはたんに卑俗な発音語に過ぎなかったものか、そこらは彦兵衛自身もしかとはきめていないようだった。この男には大分非人の血が混っているとは、口さがない一般の取沙汰であったが、勘次も藤吉も知らぬ顔をしていたばかりか、当人の彦兵衛はただにやにや[#「にやにや」に傍点]笑っているだけで、頭《てん》から問題にしていないらしかった。
 薬研堀《やげんぼり》べったら[#「べったら」に傍点]市も二旬の内に迫ったきょうこのごろは、朝な朝なの外出に白い柱を踏むことも珍しくなかったが、ことにこの冬になってから一番寒いある日の、薄氷さえ張った夜の引明け七つ半という時刻であった。出入先の同心の家で、ほとんど一夜を語り明かした藤吉は、八丁堀の合点長屋へ帰って来ると間もなく、前後も不覚に鼾《いびき》を掻き始めたその寝入り端《ばな》を、逆さに扱《しご》くようにあわただしく叩き起されたのであった。
「親――親分え、具足町《ぐそくちょう》の徳撰《とくせん》の――若えもんでごぜえます。ちょっとお開けなすって下せえまし。とんでもねえことが起りましただよ、え、もし、藤吉の親分え。」
 女手のない気易さに、こんな時は藤吉自身が格子元の下駄脱ぎへ降りて来て、立付けの悪い戸をがたぴし[#「がたぴし」に傍点]開けるのがきまりになっていた。納戸《なんど》の三畳に煎餅蒲団《せんべいぶとん》を被って、勘弁勘次は馬のようにぐっすり[#「ぐっすり」に傍点]寝込んでいた。
「はい、はい、徳撰さんのどなたですい? はい、今開けやすよ、はい、はい。」
 寝巻きの上へどてら[#「どてら」に傍点]を羽織ったまま、上り框と沓脱ぎへ片足ずつ載せた藤吉は、商売柄こうした場合悪い顔もできずに、手がかりのよくない千本格子を力任せに引き開けようとした。音もなくいつの間にか、背後に彦兵衛が立っていた。両手を懐中から顎のところへ覗かせて、彼は寝呆けたようににやにや[#「にやにや」に傍点]していたが、
「親分。」
 と唸るように言った。
「何だ?」
「お寝間へお帰んなせえよ。徳撰の用はあっしが聞取りをやらかすとしよう。」
「まあ、いいやな。」
 と、一尺ほどまた力を入れて右へ引いた戸の隙間から、頭へ雪の花弁《はなびら》を被って、黒い影が前倒《のめ》るように飛び込
次へ
全7ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング