、来た時のように呼吸を弾ませて仙太郎は飛ぶように合点長屋の路地を出て行った。
勘次の鼾だけが味噌を摺るように聞えていた。藤吉と彦兵衛は意味ありげに顔を見合ってしばらく上框に立っていたが無言の裡《うち》に手早く用意を調《ととの》えると、藤吉がさきに立って表の格子戸に手を掛けた。
「勘の奴は寝かしておけ。」
と独語のように彼は言った。微笑と共に、彦兵衛は規則正しく雷のような音の響いてくる納戸の方をちら[#「ちら」に傍点]と見返りながら歪んだ日和下駄《ひよりげた》の上へ降り立った。
「彦。」
と藤吉が顧みた。
「うるせえこったのう。が、夜の明ける前にゃ一つ形をつけるとしようぜ。」
「お役目御苦労。」
と彦兵衛は笑った。
「戯《ふざ》けるねえ――それにしてもこう押し詰ってから大黒柱がぽっきりと来た日にゃあ、徳撰の店も上ったりだろうぜ。そこへ行くと、お前の前だが、一|代《でえ》分限《ぶんげん》の悲しさってものさのう。」
二
永代の空低く薄雲が漂っていた。
彦兵衛一人を伴れた釘抜藤吉は、そのまま八丁堀を岡崎町へ切れると松平越中守殿の下屋敷の前から、紫いろに霞んでいる紅葉橋を渡って本姫木町七丁目を飛ぶように、通り三丁目に近い具足町の葉茶屋徳撰の店頭《みせさき》まで駈けつけた。
「五つごろまでに埒《らち》があいてくれるといいが――。」
一枚取り外した大戸の前に、夜来の粉雪を踏んで足跡の乱れているのを見ると、多年の経験から事件の難物らしいのを直感した藤吉は、こう呟きながら、その戸のなかへはいり込んだ。燭台と大提灯の灯影にものものしく多勢の人かげが動いているのが、闇に馴れない彼の眼にもはっきりと映った。
「これは、これは、八丁堀の親分。ようこそ――と言いてえが、どうもとんだことで、さ、さ、ずっと――なにさ、屍骸《しげえ》はまだそっと[#「そっと」に傍点]そのままにして置場にありやすよ。」
こう言いながらそそくさ[#「そそくさ」に傍点]と出て来たのは町火消の頭《かしら》常吉であった。
「旦那衆はもうお見えになりましたかい。」
番太郎が途草を食っているわけでもあるまいが、どうしたものか、検視の役人はまだ出張して来ないという常吉の答えを背後に聞き流して、湿っぽい大店の土間を、台所の飯焚釜《めしたきがま》の前から茶箱の並んでいる囲い伝いに、藤吉と彦兵衛の二人は
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