て切れ目へ糸を廻わして三段に巻いて結ぶという、これが熊谷家|口述《くじゅつ》の紫繩。なぜ紫繩というかと言えば、紫という字は割って読めば此糸、意《こころ》は何かそこらにあり合わせの「此の糸」でも痛みに食い入るから本繩としての役目は結構たりるというところから来ているとの説もあるし、血が糸に滲んでむらさき色を呈するからかく称するとも言われている。
 紫繩の弥吉、憮然として前後を固める合点長屋の親分乾児立去ろうとするそのあとに、鬼火を利かした小道具、燈芯やら油を含んだ綿やらが、普請場の壁下に風に吹かれて散らかっていた。
 歩き出した弥吉、振り向いて、血を吐くように叫んだ。
「お糸さまあっ!」

 おりきの家の格子戸が勢よく開いて、何も知らずに、永久《とわ》に来ぬ可愛い男を待ち侘びている娘お糸、通りの上下《かみしも》の闇黒を透かして、
「だって、ほほほ、いけ好かない婆や、今呼ぶ声がしたんだもの――あら、嫌だねえ、空耳かしら。」



底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
   1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆

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