釘抜藤吉捕物覚書
怨霊首人形
林不忘

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)紅葉《もみじ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)髪結|海老床《えびどこ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「米+巨」、第3水準1−89−83]
−−

      一

 がらり、紅葉《もみじ》湯の市松格子が滑ると、角の髪結|海老床《えびどこ》の親分甚八、蒼白い顔を氷雨《ひさめ》に濡らして覗き込んだ。
「おうっ、親分は来てやしねえかえ、釘抜の親分はいねえかよ。」
 濛々と湯気の罩《こも》った柘榴口《ざくろぐち》から、勘弁勘次が中っ腹に我鳴り返した。
「なんでえ、いけ騒々しい。迷子《めえご》の迷子の三太郎じゃあるめえし――勘弁ならねえ。」
「や、そう言う声は勘さん。」甚八は奥の湯槽を透《すか》し見ながら、「へえ、藤吉親分に御注進、朝風呂なんかの沙汰じゃあげえせん。変事だ、変事だ、大変事だ!」
「藪から棒に変事たあ何でえ。」
 言いさす勘次を、
「勘、わりゃあすっ[#「すっ」に傍点]込んでろ。」
 と睨《ね》めつけた藤吉、
「変事とは変ったこと、何ですい?」
 首きり湯に漬ったまま、出て来ようともしないから、表戸《おもて》の甚八、独りであわてた。
「見たか聞いたか金山地獄で、ここじゃあ話にならねえのさ。岡崎町の桔梗屋《ききょうや》の前《めえ》だ。親分、せいぜい急いでおくんなせえ。」
「あいよ。」藤吉はうだ[#「うだ」に傍点]った声。「人殺しか、物盗《ものとり》か、脅迫《ゆすり》か詐欺《かたり》か、犬の喧嘩か、まさか猫のお産じゃあるめえの。え、こう、口上を述べねえな、口上をよ。」
「桔梗屋の前だ。あっし[#「あっし」に傍点]ゃあ帰って待ってますぜ。」
 格子戸を閉《たて》切ると、折柄の風、半纏を横に靡かせて、甚八、早くも姿を消した。
「あっ、勘弁ならねえ。行っちめえやがった。」
 こう呟いて勘次が振り返った時、藤吉はもう上場《あがりば》に仁王立ちに起って、釘抜と異名を取った彎曲《まが》った脚をそそくさ[#「そそくさ」に傍点]と拭いていた。
「烏の行水、勘、早えが勝ちだぞ。」
「おう、親分、お上りでごぜえますかえ。」
「うん。ああ言って来たんだ。出張らざなるめえ。」
 顔見識りの朝湯仲間、あっちこっちから声をかけるなかを黙りこくった八丁堀合点長屋の目明し釘抜藤吉、対《つい》の古渡り唐桟《とうざん》に幅の狭い献上博多《けんじょうはかた》をきゅっと締めて、乾児の勘弁勘次を促し、傘も斜に間もなく紅葉湯を後にした。
「冷てえ雨だの。」
「あい、嫌《や》な物が落ちやす。」
 慶応二年の春とは名だけ、細い雨脚が針と光って今にも白く固まろうとする朝寒、雪意《せつい》しきりに催せば暁天《ぎょうてん》まさに昏《くら》しとでも言いたいたたずまい、正月|事納《ことおさめ》の日というから二月の八日であった。遅起きの商家で、小僧がはっはっ[#「はっはっ」に傍点]と白い息を吐きながら大戸を繰っていたり、とある家の物乾しには入れ忘れた襁褓《むつき》が水を含んでだらり[#「だらり」に傍点]と下って、それでも思い出したようにときどきしおたれ気にはためいていたりした。
 京の紅染めの向うを張って「鴨川の水でもいけぬ色があり」と当時江戸っ児が鼻を高くしていた式部好みの江戸紫、この紫染めを一枚看板にする紺屋を一般にむらさき屋と呼んで、石《こく》町、中橋、上槇《かみまき》町、芝の片門町など方々にあったものだが、中でも老舗《しにせ》として立てられて商売も間口も手広くやっていたのが岡崎町も八丁堀二丁目へ寄った桔梗屋八郎兵衛、これは日頃藤吉も親しくしている家、合点小路から海老床へ抜けるとつい[#「つい」に傍点]眼の先だ。虫の報《しら》せか藤吉勘次、近づくにつれて自然と足の運びが早くなった。
 通りへ出た。
 と見る、桔梗屋の店頭、一団の群集《ひとだかり》が円陣を描いて申し合せたように軒の端《はし》を見上げている。出入りの鳶《とび》らしいのや店の者が家と往来を行きつ戻りつして、いかさま事ありげ――。
 今は小走りに駈けながら、人々の視線を追ってその集まる一点へ眇《すがめ》を凝らした八丁堀、なにしろ府内に名だたる毎度の捕親《とりおや》だ、あらゆる妖異|変化《へんげ》に慣れきって愕くという情《こころ》を離れたはずなのが、この時ばかりはぎょっとした瞬間、前へ出る脚がいたずらに高く上って、親分藤吉、思わず一つ地面で足踏みした。
「勘の字、見ろ!」
「何ですい、ありゃあ?」
 立ち停まった二人を眼智《めざと》く発見《みつ》けた海老床甚八とに[#「に」に傍点]組の
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