たのは、見覚えのある玄内のお家流、墨痕《ぼっこん》鮮《あざや》かにかしや[#「かしや」に傍点]の三字であった。
が、ここに不思議なことには、清水屋が後から人足を送って、念のため、というよりは気休めにその古井戸を浚《さら》わせてみると、真青に水苔をつけた女の櫛が一つ、底の泥に塗れて出て来たという。
三
「器用な真似をしやがる!」
親方甚八の長話がすむのを待って、釘抜藤吉は、懐手のままぶらりと海老床の店を立ち出でた。いつしか陽も西に傾いて、水仙の葉が細い影を鉢の水に落していた。
「親分、今の話は内証ですぜ。」
追うように甚八は声を掛けた。
「きまってらい。」
と藤吉は振り向きもしなかった。
「が、俺の耳に入った以上、へえ、そうですかいじゃすまされねえ。」
と、それから、これは口の裡《うち》で、
「しかもその大須賀玄内様がだれだか、こっちにゃあちっ[#「ちっ」に傍点]とばかり当りがありやすのさ。おい、親方、」と大声で、「うまく行ったら一杯買おうぜ。ま、大きな眼で見ていなせえ。」
頬被りをしてわざと裏口から清水屋へはいって行った藤吉は、白痴《ばか》のようにしょげ返っている伝二郎を風呂場の蔭まで呼び出して、優しくその肩へ手を置いた。
「慾から出たことたあ言い条、お前さんもとんだ災難だったのう。わしを記憶《おぼ》えていなさるか――あっしゃあ合点長屋の藤吉だ、いやさ、釘抜の藤吉ですよ。」
泪《なみだ》ながらに伝二郎の物語ったところも、甚八の話と大同小異だった。眼を光らせて藤吉は下唇を噛んで聞いていたが、今から思うと、あの最初の女ちぼ[#「ちぼ」に傍点]と例のお露の幽霊とは、背恰好から首筋の具合いと言い、どうも同一人らしいという伝二郎の言葉に、何か図星が浮んだらしく、忙しそうに片手を振りながら、
「して、伝二郎さん、ここが大事なところだから、よっく気を落ちつけて返答なせえ。人間てやつあいい気なもんで、何か勝負ごとに血道を上げると、気取っていても普段の習癖《くせ》を出すもんだが――お前さんはその玄内とかってお侍とたびたび碁を打ちなすったということだが、その時|先方《むこう》にみょうちきりんな仕草、まあ、いってみりゃあ、頭をかくとか、こう、そら、膝やら咽喉やらあちこち摘《つま》みやがるとか――。」
「あ!」
と伝二郎が大声を張り揚げた。
「そういやあどうもそのようでした。へい、あの玄内の野郎、話をしてても碁を打ってても、気が乗って来るとやたらめっぽうに自身の身体を指の先で押えたり、つまんだりいたしますので。が、どうして親分はそれを御存じですい?」
「まぐれ当りでごぜえますよ。」
と藤吉は笑った。が、すぐと真顔に返って、
「――駿府《すんぷ》へずら[#「ずら」に傍点]かってる喜三《きさ》の奴が、江戸の真中へ面あ出すわけもあるめえ。待てよ、こりゃあしょ[#「しょ」に傍点]っとすると解らねえぞ。そっぽ[#「そっぽ」に傍点]を聞いても芝居を見ても――うん、ことによるとことによらねえもんでねえ。喜三だって土地っ児だ。いつまで草深え田舎のはしに、肥桶臭《こえたごくさ》くなってるわけもあるめえ――がと、してみると野郎乙にまた娑婆っ気を出しゃあがって、この俺の眼がまだ黒えのも知らねえこともあるめえに――。」
「喜三って、あの――。」
「しっ[#「しっ」に傍点]!」
と伝二郎の口を制しておいて、
「今一つお訊きしてえこたあ、ほかでもねえが、伝二郎さん、その河内屋の隠居と玄内とを二人一緒に見たことが、お前さん一度でもありますのかえ?」
伝二郎は首を横に振った。
「寮から家主の隠居所までは?」
「小一町もありますかしら。」
「裏から抜けて走って行きゃあ――?」
「さあ、ものの二分とはかかりますまい。」
「ふふん。」と藤吉は小鼻を寄せて、
「伝二郎さん、敵討ちなら早えがよかろ。今夜のうちに縛引《しょっぴ》いて見せる。親船に乗った気で、まあ、だんまりで尾いてくるがいいのさ。」
御台場から帰ったばかりの勘弁勘次を、万一の場合の要心棒に拾い上げて、伝二郎を連れた藤吉は、みちみち勘次にも事件を吹き込み、宿場端れの泡盛屋《あわもりや》で呑めない地酒に時間を消し、すっかり暗くなってから、品川の廓街《くるわまち》へべつべつの素見客《ひやかし》のような顔をして銜《くわ》え楊枝で流れ込んで行った。
「喜三ほどの仕事師だ。あぶく[#「あぶく」に傍点]銭を取ったって、人眼につき易い大場所の遊びはしめえと、そこを踏んで此里《ここ》へ出張ったのが俺の白眼《にら》みよ。それが外れりゃあ、こちとら明日から十手を返上して海老床へ梳手《すきて》に弟子入りだ。勘、その気でぬかるな。」
「合点承知之助――だが、親分、野郎にゃ小指《れこ》がついてたってえじゃごせんか。してみりゃあ何もお女郎|買《け》えでもありますめえぜ。」
「引っこ抜きと井戸の鬼火か、へん、衣裳を付けりゃあ、われ[#「われ」に傍点]だって髱《たぼ》だあな。それより、御両所、切れ物にお気をつけ召されい――とね、はっはっは、俺の玄内はどんなもんでえ。」
華やかな辺りの景色に調子を合わせるように、藤吉はひとり打ち興じていた。黄色い灯が大格子の縞を道路へ投げて人の出盛る宵過ぎは、宿場ながらにまた格別の風情を添えていた。吸いつけ煙草に離れともない在郷《ざいごう》の衆、客を呼ぶ牛太の声《こえ》、赤絹《もみ》に火のついたような女たちのさんざめき、お引けまでに一稼ぎと自暴《やけ》に三の糸を引っかいて通る新内の流し、そのなかを三人は左右大小の青楼へ気を配りながら、雁のように跡を踏んで縫って行った。
二、三度大通りを往来したが無駄だった。伝二郎も勘次も拍子抜けがしたようにぽかん[#「ぽかん」に傍点]としていた。藤吉だけが自信を持続していた。足の進まない二人を急き立てるように、藤吉が裏町へ出てみようと、露地にはいりかけたその時だった。四、五人の禿新造に取り巻かれて、奥のとある楼《うち》から今しがた出て来た兜町らしい男を見ると、伝二郎は素早く逃げ出そうとした。
「どうした?」
と藤吉はその袖を掴んだ。
「あれ[#「あれ」に傍点]です!」
伝二郎は土気色をしていた。
「違えねえか、よく見ろ。」
「見ました。あれです、あれです。」
と伝二郎は意気地なくも、ともすれば逃げ腰になる。火照《ほて》った頬を夜風に吹かせて、男は鷹揚《おうよう》に歩いて来る。
「よし。」
釘抜藤吉は頷首《うなず》いた。
「勘、背後へ廻れ、めったに抜くなよ――おう、伝二郎さん、訴人が突っ走っちゃいけねえぜ。」
苦笑と共に藤吉は、死んだ気の伝二郎を引っ立てて大胯《おおまた》に進んだ。ぱったり出遇った。
「大須賀玄内!」
と藤吉が低声で呼びかけた。欠伸《あくび》をして男は通り過ぎようとする。
「待った、河内屋の御隠居さま!」
言いながら藤吉はその前へがたがた[#「がたがた」に傍点]震《ふる》えている伝二郎を押しやった。顔色もかえずに男は伝二郎を抱き停めた。
「おっと、これは失礼――。」
「喜三郎。」と藤吉は前に立った。「蚤取《のみと》りの喜三さん、お久し振りだのう。」
ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として男は身を引いた。
「お馴染の八丁堀ですい。」
と藤吉は軽く笑って、
「この里で御用呼ばわりはしたくねえんだ。お前だって女子衆の前でお繩頂戴も気のきかねえ艶消しだろう。大門出るまで放し捕りのお情だ。喜三、往生ぎわが花だぞ、器用に来い。」
女たちは悲鳴を揚げて一度に逃げ散った。下駄を脱ぐと同時に男は背後を振り返った。が、そこには勘次がやぞう[#「やぞう」に傍点]を極め込んでにやにや[#「にやにや」に傍点]笑って立っていた。男も笑い出した。
「蚤取り喜三郎、藤吉の親分、立派にお供致しやすぜ。」
と、そうして傍らの伝二郎を顧みて、
「清水屋さん、ま、胸を擦っておくんなせえ。」
嬉しそうに伝二郎は微笑した。
「相棒は?」
と藤吉が訊いた。
「弟の奴ですかい――?」
喜三郎はさすがに悲しそうに襟のあたりを二、三度とびとびに摘《つま》んでから、
「へっ、二階でさあ。」
「勘。」
と藤吉が眼で合図した。
鼻の頭を逆さに一つ擦《こす》っておいて、折柄沸き起る絃歌の二階を、勘弁勘次はちょっと振り仰ぎながら、
「あい、ようがす。」
と広い梯子段を昇って行った。あれ、夜空に屋が流れる。それを眺めて釘抜藤吉は無心に考える。明日も――この分では明日も晴天《はれ》らしい――と。
底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日初版発行
初出:「探偵文藝」
1925(大正14)年5月号
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング