っという間に伝二郎はどうっ[#「どうっ」に傍点]と女にぶつかった。と、踵《くびす》を返して女はばたばた[#「ばたばた」に傍点]と走り出した。口まで出かかった謝罪の言辞《ことば》を引っ込まして、伝二郎は本能的に懐中に紙入れを探った。なかった。たしかに入れておいたはずの古渡唐桟《こわたりとうざん》の財布が影も形もないのである。さては、と思って透《す》かして見ると、酔眼朦朧《すいがんもうろう》たるかれの瞳に写ったのは、泥濘《ぬかるみ》を飛び越えて身軽に逃げて行く女の後姿であった。
「泥棒どろぼう――。」
 舌は縺《もつ》れていても声は大きかった。泳ぐような手つきとともに伝二郎は懸命に女の跡を追った。
「泥――泥棒、畜生、太い野郎だ!」
 と、それから苦にがしそうに口の中で呟《つぶや》いた。
「へん、野郎とは、こりゃあお門違えか――。」
 すると、街路《みち》の向うで二つの黒い影が固まり合って動いているのがおぼろに見え出した。一人は今の女、もう一人は遠眼からもりゅう[#「りゅう」に傍点]としたお侍らしかった。
「他人の懐中物を抜いて走るとは、女ながらも捨ておき難き奴。なれど、見れば将来《さき》のある若い身空じゃ。命だけは助けて取らせるわ。これに懲《こ》りて以後気をつけい――命冥加《いのちみょうが》な奴め。行けっ。」
 侍の太い声が伝二郎の鼓膜《こまく》へまでびんびん[#「びんびん」に傍点]と響いて来た。言いながら手を突っ放したらしい。二、三度よろめいたのち、何とか捨科白《すてぜりふ》を残して、迫り来る夕闇に女は素早く呑まれてしまった。
 伝二郎と侍とが町の真中で面と向って立った。忍び返しを越えて洩れる二階の灯を肩から浴びた黒紋付きに白博多のその侍は、呼吸を切らしている伝二郎の眼に、この上なく凜々《りり》しく映じたのだった。五分|月代《さかやき》の時代めいた頭が、浮彫《うきぼり》のようにきり[#「きり」に傍点]っとしていて、細身の大小を落し差しと来たところが、約束通りの浪人者であった。水を潜ったそのたびに色の褪《あ》せかけた、羽二重もなんとなくその人らしく、伝二郎の心には懐しみさえ沸《わ》き起るのだった。腕に覚えのありそうな六尺豊かの大柄な人だった。苦み走った浅黒い顔が、心なしか微笑んで、でも三角形に切れの長い眼はお鷹《たか》さまのように鋭《するど》く伝二郎を見下していた。気
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