へ入れいれしていた。古井戸の底には、いつも一人や二人の若い女の屍体が転がっていないことはなかった。庭の土からは埋めた頭髪《かみのけ》が現れて、雨風に叩かれていた。
 天狗の業、神隠し、こうした言葉がさかんに行われ始めたのも町年寄の一人たる磯屋平兵衛がその流言《りゅうげん》の元締だったことは言うまでもないが、率先して庄助屋敷前にあの高札を建てて人心を眩まそうとしたその画策も皆おりんの指金であった。
 磯屋の品は好評を博した。それにつれて、天狗の横行もはなはだしくなった。が、一人ではああも多勢掠められるわけがない。実際、平兵衛が街上《まち》や路地の奥で女を押さえようとする時には、風のようにおりんの姿が立ち現れて金剛力を藉したという。あるいはそれは平兵衛にだけ見える幻であったかもしれない。犠牲《いけにえ》の数が重なるにしたがい、此紙《これ》を始終懐中にして供養の呪文を口誦するようにと、おりんは平兵衛へ「一郎殿より三郎殿、おそれありや」の彼の文言を書き与えたのであるという。
 で、今日はかのと[#「かのと」に傍点]の酉の日。
 四日前に入れた二つの屍だけを井戸から釣り上げておいて、平兵衛は朝早く青山の方へ用達しに行った。その帰途《かえり》、近所の町組詰所へ立ち寄って、異な物を銜えた宿無犬のことを聞き、もしやと思って急いで帰宅《かえ》ってみると、案の定、出かける前に茹で上げておいた屍《むくろ》の一つ――多分お滝の――から頬の肉が失くなっていた。のみならず、あわてて詰所を出た時か、大切なおりんの呪縛《まじない》の紙を紛失しているのに気がついた。
 落ち着かない心持で夜を待ったが、夜になってもおりんが来ないので、平兵衛は気が気でなかった。それでも、予定どおりに三つの釜の蒲鉾を仕上げて、極秘の混入《まぜ》物をすることも怠らなかった。おりんは今夜とうとう姿を見せなかった。呆然自失した平兵衛は、おりんを探すこころでよろめくように背戸口へ出たが――。ところで石と土の被せてある井戸の穴へどうして平兵衛が堕込《おちこ》んだか。またどうしてそのあとへ石と土とが直ったか。誰が手を下したか。謎である。永劫《えいごう》に解けない、これらの謎の鍵を握っていたかもしれない地上唯一の人間磯屋平兵衛も、この時はもう他界していた。おりんの呼び声でも聞いたとみえて、「おう、そこにいたか。今行く。」
 とひとこと
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