んは平兵衛の振り上げた仕事用の砧《きぬた》の下に、未だ生きていたい現世《このよ》に心をのこして去ったのだった。
驚き慌てた平兵衛、哭き悲しんでみたが、さてどうにもならない。それが、おりんの死体の処理という現実の問題に直面して、彼はいっそう困《こう》じ果てたのであった。
この時、思い出したのが背戸の古井戸。
いったい、平兵衛の代になってからいろいろの災厄が磯屋の家へふりかかってきた所以《ゆえん》のものは、一に、先代の死後間もなく彼が誤って掘らしめた暗剣殺に当る背戸口の井戸にあると、自分では固く信じていた。だから方位が悪いと気がつくや否や、大部分出来上った工事を中止させて、家の傍の小路端にあった道六神の石塔を、自身担いで来て、穴を塞ぎ、その上から土を被せてようやく安心したくらいであった。
ところが、世間の思惑と葬式の資金に困った平兵衛は、気も顛倒していたものとみえて、普段あれほど恐れ戦《おのの》いていたこの水無《みなし》井戸へ、おりんの屍《むくろ》を投げ込もうと決心したのである。
夜ひそかに土を掘り石を除いた平兵衛を、そこに一つの怪異が待ち構えていた。道六神の石標が六[#「六」に傍点]に準《なぞら》えた六角形の自然石、赤黄色を帯びて多分に燐を含む俗にいう鬼火石であることに平兵衛は気がつかなかった。また、その岩質が非常に脆く、永年土中に在って雨水異物を吸って表面がぼろぼろ[#「ぼろぼろ」に傍点]に朽ち果てたところから、井戸一帯に燐の粉が零《こぼ》れて、それに鬱気《うつき》を生じ、井戸の中、覆《ふた》の石、周りの土までが夜眼にも皓然《こうぜん》と輝き渡っていたその理を、彼は不幸にも弁《わきま》えなかったのだ。
平兵衛は胆を潰した。無我夢中で死骸を投り込むと、元のとおりに石と土とで井戸を蔽って、その夜は眠られぬままに顫えて明かし、翌日からおりん失踪の件をいと真実《まこと》しやかに触れて歩いた。
初七日はちょうど精霊迎えだった。その暮方のことだった。釜の火を落していた平兵衛が背後に人気を感じて何心なく振り返ると死んだ女房、古井戸の底に丸くなっているはずのおりんが、額へ三角の紙を当てて、そっくり[#「そっくり」に傍点]白の装束でいつの間にかかいがいしく鮫魚《さめ》の伸《のべ》棒を洗っていた。
平兵衛は怖ろしいというよりも嬉しかった。衣類《きもの》こそ変れおりんはま
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