勘次も朝夕顔を見れば天気の挨拶位は交す仲だった。
 土地から蝋燭代を貰って景気を助《す》けに出る棟梁株《あたまかぶ》の縁日商人に五種あって、これを小物、三寸、転び、ぼく、引張《ひっぱり》とする。小物とは大傘を拡げかけてその下で駄菓子飴細工の類を売る者、三寸とは組立屋台を引いて来て帰りには畳んで行く者、転びとは大道へ蓙《ござ》を敷いて商品を並べるもの、ぼく[#「ぼく」に傍点]というのは植木屋、引張とあるは香具師《やし》のことである。与惣次はこの小物師であった。
 今のさき、湯帰りの勘次がこの与惣次の家の前を通ると、神田の小太郎がしきりに雨戸を叩いている。立話しながら訊いてみると、明日の王子神社の槍祭を当て込み、今日の暮方に発足して夜通し徒歩《てく》ろうという約束があって、仲間同士のよしみから廻り道して誘いに寄ったという。見ると板戸は閉切《たてき》ってあるものの内側《うち》から心張《しんばり》がかかっている様子がまんざら無人とは思われない。朝ならともかく午下りも老いたころ、ついぞないことなばかりか、用意洩れなく準《ととの》えて待ち受けていべきはずの与惣次が――? 小太郎は首を捻って、勘次ともどもまた激しく戸を打ったが、何の応《いら》えもない。業《ごう》を煮やした小太郎は舌打ちして行ってしまった。ただこれだけの事件《こと》ではあるが、いそうで開けないのを不審と白眼《にら》めば臭くもある。
「ついそこだ、親分、ちょっと出張って検てやっておくんなせえ。あっし[#「あっし」に傍点]ゃや[#「や」に傍点]に気になってね、どういうもんだかいても立ってもいられねえんだ。」
「莫迦っ。」藤吉が呶鳴った。「寝込んででもいるべえさ。が、奴、待てよ。」と思い返したらしく、
「どこでも叩きゃあちったあ埃りが立とうというもの。なにも胸晴《むなばら》しだ、勘の字、われも来るか。」
 勘弁勘次と並んでぶらり[#「ぶらり」に傍点]と合点小路を立出でた釘抜藤吉、先日来の富五郎捜しで元乾児の影法師三吉に今度ばかりは先手を打たれたこと、おまけに途端場《どたんば》へ来て死人に足でも生えたかしてまたしても御用筋が思わぬどじ[#「どじ」に傍点]を踏んだこと、これらが種となって、一脈の穏やかならぬものがその胸底を往来していたのも無理ではなかった。
 稲荷の小橋を右手に見て先が幸い水谷町、その手前の八丁堀五丁目を河岸
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