噌松が口を入れた。
「地均《じなら》しの時水が吹きやしてね、で、ああして捌口《はけぐち》を拵えといたといつかも旦那が言ってやしたよ。いつもあ水が一寸くらいで、ぐるり[#「ぐるり」に傍点]と蔵を廻って横町から下水へ落ちてまさあ。」
「勘、底は?」
「へえ、玉川砂利。」
 これを聞くと、別人のように藤吉時、威勢よく泥足を洗いながら、
「松さん、二階だ、二階だ。」と唄うように我鳴り立てた。
「お内儀を引っ叩きゃあ細工《さいく》は解る。勘、呼んだら来いよ。」

      三

「悔みあ後だ。え、こう、御新さん、久松留守の尻が割れたぜ。おっ、なんとか言いねえな。」
 二階の六畳へ通ると、出抜けにこう言って、藤吉はどっか[#「どっか」に傍点]と胡坐をかいた。味噌松は背後に立った。
 手早く畳んだらしい蒲団に凭《もた》れて、孫右衛門女房おみつがきっ[#「きっ」に傍点]となって顔を上げた。七、八にはなっていようが、どう見ても二十三、四と言いたいほどの若々しさ。寝乱れ姿のしどけなく顔蒼ざめた様子も、名打《なう》ての美形《びけい》だけあって物凄いくらい。死んだ主人とは三十近くも齢が違うわりに、未だかつて浮いた沙汰などついぞ[#「ついぞ」に傍点]世間に流れたことはなかった。孫右衛門実母お定の探索《たんさく》の要で藤吉も今まで二、三度会ったことはあるが、こうしてつくづく顔を見るのはこれが初めて。さすがに泣き腫らした眼から鼻へ、いかにも巧者な筋が通っているのを、藤吉は素早く看て取った。帰らぬ良人を待ち侘びて独寝《ひとりね》を辿ったものか――部屋はこぢんまり[#「こぢんまり」に傍点]片づいていた。
「釘抜の親分え。」いきなり味噌松が沈黙を破った。「お神さんの利益にゃあならねえが、思い切って申し上げやしょう。始め、わっちが裏戸を叩いて、大変だ大変だ、旦那が大変だ、って報《しら》せたと思いなせえ。するてえと、起きてたものと見えてお神の声で、なんだえ、松さんかえ、朝っぱらから騒々しい、今行くよ、って言うのが二階から聞こえやした。」味噌松は上手におみつの声色を聞かせた後、「で、わっしゃあすぐと蔵へ取って帰したが、お神はなかなか出て来ねえんで。日和《ひより》を突っかけて姿を見せるまでに、なんだか、莫迦に台所をがたがた[#「がたがた」に傍点]言わせていやしたよ。」
 藤吉は唾を呑んだ。そして、おみつに向き直った。
「旦那は昨夜寄合いかね?」
「いえ、あの、」とおみつは顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を[#「顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》を」は底本では「顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こかめみ》を」]押えて、「母さんのことでお組長屋前の親類まで行ってくるが空が怪しいから足駄だけ出せと言って、暮れ六つ打つと間もなくお出かけになりました。」
「そうそう、婆さまの生死《いきじに》も知れねえうちにまたこの仕末だ。ばつ[#「ばつ」に傍点]の悪い時あ悪いもんでのう。」
 藤吉は優しく言った。湿《しめ》やかな空気が流れた。
 おみつの話はこうだった。
 親戚へ行った主人は五つ半過ぎても帰らない。母親の失踪以来相談に更けて泊り込んでくることも珍しくないので、昨夜も別に気に留めずに、独り床を敷いて横になった。が、どういうものか寝就かれず、時の鐘を数えているうちに雨になった模様。ああ、今夜はとうとう帰らないな、もしまた出て来ても彼家《あそこ》なら傘も貸せば人も付けてくれるはず――こう思うとそれが安心になってか、それから、今朝味噌松に起されるまでおみつはぐっすり[#「ぐっすり」に傍点]眠ったという。
 現場に落ちていたあの足駄は間違いもなく自家から穿いて行ったもの。傘も借りて来たことだろうが――と、おみつは言葉を切った。
「いんや、その傘がねえ。のう、松さん。」
 藤吉が振り返った。味噌松はうなずいた。おみつは争うように、
「でも、まさかあの雨の中を、傘なしで帰る人もござんすまい。」
「お内儀さんえ。」と藤吉は、輪にした左手の指を鼻の先で振り立てながら、
「旦那あ――やったかね?」
「御酒? いいえ、全然不調法でござんした。」
「はてね。婆さまのこっちゃあ豪く気を病《や》んでいたようだのう。」
「ええ、そりゃあもう母一人子一人の仲でござんすから、傍《はた》の見る眼も痛わしいほど――。」
「親分、旦那の傘は?」
 味噌松が口を挾んだ。
「さて、そのことよ。」と藤吉はゆっくりと、「持って帰ったもんなら、御組長屋《おくみながや》と此家《ここ》との道中に、どこぞに落ちてるだんべ。さもなけりゃあ、あんなに濡鼠《ぬれねずみ》になる理由がねえ、と俺あ勘考しやすがね、松さん、お前の推量は?」
「わっちもそこいらだ。そりゃあそうと、親分、出て行った
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング