に三カ所、右の手に二つの大小の金瘡《きんそう》、黒土まみれに固くなっていてもまだなんとなく男の眼を惹く白い足首と赤絹《もみ》から覗いている大腿のあたり、それらの上に音もなく雨のそぼ降るのを、彦兵衛は眠そうに凝視めていた。
 空地に一人据わっているこの見すぼらしい男の姿を、通行人の二人三人が気味悪そうに立って眺め出すころ、煮豆屋から急を聞いた提灯屋の亥之吉は、若い者を一人つれて息せき切って駈けつけて来た。番太郎小屋の六尺棒、月番の町役人もそれぞれ報知によって出張したが、亥之吉始め一同の意見は、要するに葬式彦兵衛の観察範囲を出なかった。何よりも、殺された女の身元不明という点で立会人たちは第一に見込みの立て方に迷ったのである。
 詰めかけ始めた弥次馬連を草原内へ入れまいと、仕事師《きおい》が小者を率いて頑張っていた。その中には見知りの者もあるかもしれないから警戒を弛めて顔見せをしてはという話も出たが、事件はとても自分の手に負えないと見た提灯屋は、一つには発見者たる彦兵衛の顔を立てようと、来合せた同心組下の旦那へもひととおり謀った後ただちに八丁堀親分の手を借りることにし、早速彦兵衛を口説いて合点長屋へ迎えの使者に立ってもらったのだった。

      三

 狭い道路を埋めた群集がざわめき渡った。
 勘弁勘次と彦兵衛を引具して尻端折った釘抜藤吉は、小股に人浪を分けて現場へ進んだ。
「お立会いの衆、御苦労様でごぜえます。」
 こう言って挨拶した時、彼の短い身体はすでに二つに折れて屍骸の上へ屈んでいた。致命傷ともいうべき咽喉の刀痕へ人差指を突き込んでみて、その血の粘りを草の葉で拭うと、今度は指を開いて傷口の具合いを計った。次に、石のように堅い死人の両の拳を勘次に開かせて何の手がかりも握っていないことを確めた。そして、最後に、ちょっと女の下半身を捲って犯されていないらしいと見届けた藤吉は、
「ふうん。」
 と唸って腰を延した。眼を閉じて腕組みしている。
「遠い所をお願え申しまして、なんともはや――。」提灯屋が口を入れた。が、藤吉は返事どころか身動《みじろ》ぎ一つしない。
「此女《これ》の人別がわかりやしてな。」と提灯屋は言葉を継ぐ。「へえ、この先の笠森稲荷の境内に一昨日水茶屋を出したばかりのお新てえ女で。――どこの貸家《たな》かあ知りませんが、身寄りも葉寄りもねえ――。」
 と言いかけたが、大声で背後の若者へ、
「なあ、おい、それに違えねえなあ。」
「俺あちょっと前を通っただけだが、どうもあの姐さんにそっくり[#「そっくり」に傍点]だ。」
 若者は仏頂面《ぶっちょうづら》で答えた。藤吉は化石したように突っ立ったきり――人々はその顔を見守る。
「色恋沙汰ってところがまず動かねえ目安でげしょう?」
 と提灯屋が再び沈黙を破った。
「――――」
「心中の片割れじゃごわせんか。」
「――――」
「物盗りじゃありますめえの?」
「――――」
 口をへ[#「へ」に傍点]の字に結んで、藤吉は眼を開こうともしない。提灯屋も黙り込んで終った。と、うっとりと眼を開けた藤吉は、忘れ物をした子供のように屍体の周りを見廻していたが、
「履物は? 仏の履物は?」
「へえ、ここにごぜえます。」
 町役人手付の一人がうろたえて取り出して見せる黒塗の日和《ひより》へ、藤吉はちら[#「ちら」に傍点]と眼をやっただけで、
「雨あ夜中の八つ半から降りやしたのう?」
「へえ。」誰かが応ずる。
「勘。」と、藤吉がどなった。「手を貸せ。」
 勘次が屍骸を動かすのを待ちかねたように、女の背中と腰の真下へ手を差し入れて土を撫でた藤吉は、すぐその手で足許の大地を擦って湿りを較べているらしかったが、つ[#「つ」に傍点]と顔を上げた時には、すでに、八方睨みといわれたその眼に持って生れた豁達《かったつ》さが返っていた。
「小物は小物だが匕首じゃねえぞ。」誰にともなく彼は呻いた。
「出刃でもねえ。菜切りだ、菜切庖丁だ。人を殺すに菜葉切りのほかに刃物のねえような、こう彦、手前に訊くが、精進場はどこだ、え、こう?」
「へへへ。」彦兵衛は笑った。「寺さあね。」
「図星だ。」
 藤吉も微笑んだ。一同は驚いた。そして、次の瞬間には、申し合せたように石垣を越えて随全寺の瓦屋根へ視線を送った。烏の群が空低く鳶に追われているその下に、石垣の端近く、羽毛のような葉をした喬木《きょうぼく》に黄色い小さな花が雨に打たれて今を盛りと咲き誇っているのが、射るように釘抜藤吉の眼に映った。
 説明を求めるように人々がぐるり[#「ぐるり」に傍点]と彼の身辺に輪を画いた後までも、藤吉の眼は凍りついたようにその黄色い花から離れなかった。と、やがて、低い独語が、
「いやさ――寺でもねえ。」
 と藤吉の唇を衝いて出たが、にわかに溌剌《はつらつ》として傍らの彦兵衛の肘を掴むと、
「のう、彦、大の男がこの界隈から一時あまりで往復《いきけえ》りのできる丑寅の方と言やあ、ま、どの辺だろうのう?」
「急いでけえ?」
「うん。」
「丑寅の方角なら山王旅所《さんのうたびしょ》じゃげえせんか。」
「てえと、亀島町は――。」
「眼と鼻の間。」
「やい、彦、手前亀島町の近江屋まで走って――。」
 と何やら吹込んだ藤吉の魂胆。頷首《うなず》きながら聞き終った彦兵衛は、
「委細合点承知之助。」
 ぶらり[#「ぶらり」に傍点]と歩き出す。
「屑っ籠は置いてけよ。」
 茶化し半分に追いかけてどなる勘次を、
「勘、無駄口叩かずと尾いて来いっ。」
 と、藤吉は飛鳥のごとくやにわに随全寺の崩れ石垣を攀登《よじのぼ》った。遅れじと勘次が続こうとすると、
「親分、親分の前だが、寺内のお手入れだけは見合せて下せえ。寺社奉行の支配へ町方が――。」
 町役人の重立《おもだち》が、こう言って同心手付の方へ気を兼ねながら、心配そうに藤吉を見上げた。が、
「花を見る分にゃあ寺内だろうとどこだろうといっこう差支えごぜえますめえ。」
 とすまし込んだ藤吉は、木の下へ立って黄色い花を矯《た》めつすがめつ眺めていたが、ぐい[#「ぐい」に傍点]と裾を引上ると、浅瀬でも渉る時のような恰好でやたらにそこらじゅうを歩き始めた。気のせいか、雨に洗われた雑草の形が乱れて、黄色い花をつけた小枝が一面に折れ散っている。そこから本堂との間は広くもない墓場になっていて、石塔や卒塔婆《そとば》の影が樹の間隠れに散見していた。
 勘次も提灯崖も、ただ猿真似のようにその黄色い花の咲いている木の廻りを見渡した。二尺近くも延びている草の間から、青竹の切れを探し当てた藤吉は、暫時それで地面の小枝を放心《ぼんやり》掻き弾《はじ》いていたが、来る途中彦兵衛から受け取った小さな金物を袂から出して眺め終ると、やがてすたすた[#「すたすた」に傍点]庫裏《くり》の方へ向って歩き出した。後の二人は、狐につままれたようにその尾に随いた。
 と、何事か思い出したように藤吉が勘次へ囁いた。勘次はびっくりして聞き返した。藤吉の眼が嶮しく光った。勘次はそそくさ[#「そそくさ」に傍点]と寺を出外れると、そのまま屋敷町の角へ消えて行った。

      四

「不浄仏《ふじょうぼとけ》たあ言い条――。」
 薄暗い庫裏の土間へはいると、突然、釘抜藤吉は破鐘《われがね》のように我鳴り立てた。
「寺社奉行の係合いを懼《おそ》れてか、それとも真実《まこと》和尚さんに暗え筋のあってか、ま、なんにしても、縁あらばこそ墓所で旅立った死人を、石垣下へ蹴転がすたあ、あまりな仕打ちじゃごぜえませんか。もし、あっし[#「あっし」に傍点]ゃあ八丁堀の藤吉でがす。」
 海の底のように寂然《しいん》としたなかで、藤吉の声だけが筒抜けに響く。はらはら[#「はらはら」に傍点]した提灯屋が思わず袖を引いた。
「親分――。」
「まあ、こちとらの方寸《むね》にある。」と、藤吉はまた一段と調子を上げて、
「不浄仏たあ言い条――おうっ、無縁寺ですかい? どなたもおいでにならねえんですかい?」
「はい、はい。」
 と、この時、力なく答えて奥の間から出て来たのはまだ年若い所化、法衣の裾を踏んで端近く小膝をつく。
「はい、仏間深く看経中《かんきんちゅう》にて思わぬ失礼――して何ぞ御用でござりまするか。」
「御住持は?」
「森元町の方に通夜に参って、昨夜五つ時から不在でござりまする。」
「五つ?」
「はい。」
「御住持のお姓名は?」
「下田|日還《にっかん》と申しまする。」
「あっし[#「あっし」に傍点]ゃあ御覧のとおりのやくざ[#「やくざ」に傍点]者、ものの言い方を知らねえのは御免なせえよ。」と藤吉もぐっ[#「ぐっ」に傍点]と砕けて出て、「つかねえことを訊くようですが、こいつあいってえどなたんですい?」
 囲炉裏の傍に乾してある紺足袋を手に取ると、若僧の前へぽいと無造作に抛り出しながら、藤吉はこう言って相手の表情を読もうとした。
「はて異なお質問《たずね》――だが、見まするところこの足袋は――。」
 と眺めていたが、ふと顔を上げて、
「この足袋に何か御不審の筋でもあって――?」
「鞐《こはぜ》が一つありますめえ。」
 藤吉は鼻の先で笑った。
「なるほど、右のが一つ脱れております。」
「ここにある。」袂を探って、彦兵衛の拾った小さい金物を手の平へ載せると、そのまま所化《しょけ》の前へ突き出して、
「これでがしょう、他のといっち[#「いっち」に傍点]合《え》えましょうが。」
「どうしてそれがあなたの手に?」
「ついこのむこうの空地に落ちてやしたよ。」
「空地? と申せば石垣下の――?」
「おうさ、死骸の傍に。」
 と聞いて思わずきっとなった提灯屋は、一歩前へ詰め寄った。が、出家は怪訝《けげん》な面持ち。
「屍骸――とは何の死骸?」
「へえ、お新さんの屍骸で――。」
「えっ! あの、お新!」
「のう、誰の足袋だか聞かせて下せえやし。」
「はい、足袋はたしかに寺男佐平の所有《もの》。」
「佐平どんはどこに?」
「あれ、今し方までそこらに――佐平や、これ、佐平や。」
 炭俵なぞの積んである一隅に、がさがさ[#「がさがさ」に傍点]という人の気配がした。
「お!」
 藤吉は素早く眼くばせする。心得た提灯屋が、飛んで行ったと思う間もなく、猫の仔みたいにひきずり出して来た小柄の老爺、言うまでもなく随全寺の寺男佐平であった。
「野郎逃がしてなるか。」有頂天《うちょうてん》になった提灯屋亥之吉が、なおも強く佐平爺の腕を押えようとすると、
「こう、提灯屋、ここは寺内だ。滅多な手出しをしてどじ[#「どじ」に傍点]踏むなよ。」
 とにやにや[#「にやにや」に傍点]しながら、また藤吉は僧へ向き直って、
「この人が佐平どんで足袋の主、さ、それはそれとしてもう一つ伺いてえのは、お新[#「お新」に傍点]と呼捨てにするからにゃあ、彼の姐御とこの寺との間柄――。」
「はい。」と若い僧侶は顔色も蒼褪《あおざ》めて、
「はい、もうこうなりますれば、何事も包まず隠さず申し上げますが。」
「うん、好い料簡《りょうけん》だ。」
「実は、面目次第もござりませぬが、親分さま、実のところ――。」
 と打ち開けた彼の話によると、若い身空で朝夕仏に仕える寂しさから、いつしか彼は笠森稲荷の茶屋女お新と人眼を忍ぶ仲となり、破戒の罪に戦《おのの》きながらも煩悩の火の燃えさかるまま、終いには毒食わば皿までもと住職の眼を掠めては己が部屋へ引き入れ、女犯《にょぼん》地獄の恐しい快楽《けらく》に、この頃の夜の短かくなりかけるのをうたた託《かこ》っていたのであった。
 元来お新という女は江戸の産れでなく、大宮在から出て来て間もないとのことだったが、田舎者にしてはちょっと渋皮の剥《む》けたところから、茶屋を出す一、二日うちに早くも引く手|数多《あまた》の有様だったけれど、根が浮気者にも似ずそれらの男を皆柳に風と受け流していたのは、当初の悪戯気からだんだん深間へ入りかけていたとは言えけっして随全寺の若僧にばかり女を立てていたからではなく、全くは、大宮から一緒に逃
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