釘抜藤吉捕物覚書
梅雨に咲く花
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)黄表紙《きびょうし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)笠間右京|暗夜白狐退治事《あんやにびゃっこたいじること》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)に[#「に」に傍点]組の
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一
「ちぇっ、朝っぱらから勘弁ならねえ。」
読みさしの黄表紙《きびょうし》を伏せると、勘弁勘次は突っかかるようにこう言って、開けっ放した海老床の腰高《こしだか》越しに戸外《そと》を覗いた。
「御覧なせえ、親分。勘弁ならねえ癩病人《かってえぼう》が通りやすぜ――縁起《えんぎ》でもねえや、ぺっ。」
「金桂鳥《きんけいちょう》は唐《から》の鶏《にわとり》――と。」
町火消の頭、に[#「に」に傍点]組の常吉を相手に、先刻から歩切《ふぎ》れを白眼《にら》んでいた釘抜藤吉は、勘次のこの言葉に、こんなことを言いながら、つ[#「つ」に傍点]と盤から眼を離して何心なく表通《おもて》の方を見遣った。
法被姿《はっぴすがた》に梵天帯《ぼんてんおび》、お約束の木刀こそなけれ、一眼で知れる渡り部屋の中間奉公、俗に言う折助《おりすけ》、年齢《とし》の頃なら二十七、八という腕節の強そうなのが、斜に差しかけた破《やぶ》れ奴傘《やっこ》で煙る霖雨《きりさめ》を除けながら今しもこの髪床の前を通るところ。その雨傘の柄を握った手の甲、青花《はないろ》の袖口から隙いて見える二の腕、さては頬被りで隠した首筋から顔一面に赤黒い小粒な腫物《はれもの》が所嫌わず吹き出ていて、眼も開けないほど、さながら腐りかけた樽柿《たるがき》のよう。
「あの身体で、」と藤吉は勘次を顧みる。「よくもまあ武家屋敷が勤まるこったのう。いずれ明石町か潮留橋《しおどめばし》あたりの部屋にゃ相違あるめえが――え、おう、勘。」
が、真黒な細い脚を上《あが》り框《がまち》へ投げ出したまま、勘弁勘次はもう「笠間右京|暗夜白狐退治事《あんやにびゃっこたいじること》」の件《くだ》りを夢中になって読み耽っていて、藤吉親分の声も耳にははいらなかった。
「ああまで瘡《かさ》を吹くまでにゃあ二月三月は経ったろうに、渡りたあ言いながらあの様でどうして――? はて、こいつあちょっと合点が行かねえ。」
雨足の白い軒下をじいっと凝視《みつ》めて、藤吉は持駒で頤を撫でた。
「合点がいかねえか知らねえが、」と、盤の向う側から頭の常吉が口を出した。「先刻から親分の番でがす。あっし[#「あっし」に傍点]はここんとこへ銀は千鳥としゃれやしたよ。」
「うん。」藤吉はわれに返ったように、「下手の考え休みに到る、か。」と、ぱちりと置く竜王《りゅうおう》の一手。
降りみ降らずみの梅雨《つゆ》上りのこと。弘化はこの年きりの六月の下旬《すえ》だった。江戸八丁堀を合点小路へ切れようとする角の海老床に、今日も朝から陣取って、相手変れど主変らず、いまにもざあっと来そうな空模様を時折大通りの小間物問屋金座屋の物乾しの上に三尺ほどの角に眺めながら、遠くは周の武帝近くは宗桂《そうけい》の手遊《てすさび》を気取っているのは、その釘抜のように曲った脚と、噛んだが最後釘抜のように離れないところから誰言うとなく釘抜藤吉と異名を取ったそのころ名うての合点長屋の目明し親分、藍弁慶《あいべんけい》の長着に焦茶絞《こげちゃしぼ》りの三尺という服装《こしらえ》もその人らしくいなせ[#「いなせ」に傍点]だった。乾児の岡っ引二人のうち弟分の葬式彦兵衛は芝の方を廻るとだけ言い置いて、いつものとおり鉄砲笊《てっぽうざる》を肩にして夜明けごろから道楽の紙屑拾いに出かけて行った。で、炊事の番に当った勘弁勘次が、昼飯《ひる》の菜《さい》に豆腐でも買おうとこうやって路地口まで豆腐屋を掴まえに出張って来たものの、よく読めないくせに眼のない瓦本《かわらぼん》でつい[#「つい」に傍点]髪結床へ腰が据わり、先刻から三人も幸町を流して行く呼声にさえ気のつかない様子。もう四つにも間があるまい、背戸口の一本松の影が、あれ、はい寄るように障子の桟へ届いている――。
「親分。」
盲目縞をしっとり[#「しっとり」に傍点]濡らした葬式彦が、いつの間にか猫のように梳場《すきば》の土間に立っていた。
「彦か――やに早く里心がついたのう。」
と藤吉は事もなげに流眄《ながしめ》に振り返って、
「手前、何だな、何か拾って来やがったな。」
「あい、聞込みでがす。」
がばと起き上った勘次の眼がぎらり[#「ぎらり」に傍点]と光った。
「違えねえ」と藤吉は笑った。「さもなくて空籠で巣帰りする彦じゃねえからのう、はっはっは。」
「親分。」
「なんでえ?」
「お耳を。」
「大仰な。」
「いえ、ちょっくら耳打ちでがす。」
腰の豆絞《まめしぼ》りを脱って顔を拭くと、彦兵衛は藤吉の傍へいざり寄った。
「常さん、ま、御免なせえよ。」と、将棋の相手の方へ気軽に手を振った藤吉は、「こうっ、雨の降る日にゃあ、こちとら気が短えんだ。彦、さっさ[#「さっさ」に傍点]と吐き出しねえ。」
右手を屏風にして囲った口許《くちもと》を、藤吉の左鬢下へ持って行くと、後は彦兵衛の咽喉仏《のどぼとけ》が暫時上下に動くばかり――。苗売りの声が舟松町を湊町の方へ近付いてくるのを、勘次は聞くともなしに放心《ぼんやり》聞いていた。
と、藤吉が突然大声を出した。
「繩張りゃあ誰だ?」
「提灯屋でげす。」
彦兵衛も口を離した。
「提灯屋なら亥之吉《いのきち》だろうが、亥之公なら片門前《かたもんぜん》から神明金杉、ずっ[#「ずっ」に傍点]と飛びましては土器町《かわらけちょう》、ほい、こいつあいよいよ勘弁ならねえ。」
と訳も知らずにはしゃぎ始める勘次の差出口を、
「野郎、すっ[#「すっ」に傍点]込んでろい!」と一喝しておいて、藤吉は片膝立てて彦兵衛へ向き直った。
「土地から言やあ提灯屋の持場だ。旦那衆のお声もねえのに渡りをつけずにゃ飛び込めめえ。」
「ところが親分。」と彦兵衛はごくり[#「ごくり」に傍点]と一つ唾を飲み込んで、「その亥之公の願筋《がんすじ》であっし[#「あっし」に傍点]がこうしてお迎えに――。」
「来たってえのか?」
「あい。」
「仏は?」
「新《あら》も新、四時《よとき》ばかりの――。」
「うん。現場は?」
「提灯屋の手付きで固めてごぜえます。」
「よし。」と釘抜藤吉が立ち上った。五尺そこそこの身体に土佐犬のような剽悍《ひょうかん》さが溢れて、鳩尾《みぞおち》の釘抜の刺青が袷《あわせ》の襟下から松葉のようにちらと見える。
「常さん、お聞きのとおり、この雨降りに引っ張り出しに来やがったよ。ま、勝負はお預けとしときやしょう――やい、奴」と軽く足許の勘次を蹴って、「一っ走りして長屋から傘を持ってこい。」
二
「酒《ささ》がこうしてついそれなりに、雑魚寝《ざこね》の枕《まくら》仮初《かりそめ》の、おや好かねえ暁《あけ》の鐘――。」
神田の伯母からふんだくった一枚看板と、この舞台《いた》についた出語りとで、勘次は先に立って三十間堀を拾って行った。
乾すつもりで拡げてある家並裏の蛇の目に、絹糸のような春小雨の煙るともなく注いでいるのを、眇《すがめ》の気味のある眼で見て通りながら、少し遅れて藤吉は途々彦兵衛の話に耳を傾けた。青蛙が一匹、そそくさと河岸の柳の根へ隠れる。奥平大膳殿屋敷の近くから、脇坂淡路守の土塀に沿うて、いつしか三人は芝口を源助町《げんすけちょう》の本街道へ出ていた。
芝へ入って宇田川町、昨夜の八つ半ごろから降り続けた小雨も上りかけて、正午近い陽の目が千切れ雲の隙間を洩れる。と、この時、急足に背後から来て藤吉彦兵衛の傍を駈け抜けて行った折助一人――手に小さな風呂敷包みを持っている。
「勘。」
藤吉が呼んだ。
「なんですい?」
振り向く勘次、その折助とぴったり顔が会った。それを、男は逃げるように掻い潜って行く。
「見たか?」と藤吉。
「見やしたよ。」と勘次は眉を顰《しか》めて、「紛《まぎ》れもねえ先刻の癩病人《かってえぼう》だ。ぺっ、勘弁ならねえや。」
すると、藤吉が静かに言った。
「面をよく記憶《おぼ》えとけよ、勘。」
「あの野郎は何かの係合いですけえ?」
彦兵衛が訊いた。
「何さ。為体の知れねえ瘡《かさ》っかきだからのう、容貌《そつぼう》見識《みし》っとく分にゃ怪我はあるめえってことよ。うん、それよりゃあ彦、手前の種ってえのを蒸返し承わろうじゃねえか。」
久し振りに狸穴町《まみあなちょう》の方を拾ってみようと思い立った葬式彦兵衛が、愛玩の屑籠を背にして金杉三丁目を戸田|采女《うねめ》の中屋敷の横へかかったのは、八丁堀を日の出に発った故か、まだ竈《かまど》の煙が薄紫に漂っている卯の刻の六つ半であった。寺の多い淋しい裏町、白い霧を寒々と吸いながら、御霊廟《おたまや》の森を右手に望んで彦兵衛は急ぐともなく足を運んでいたが、ふとけたたましい烏の羽音とそれに挑むような野犬の遠吠えとでわれにもなく立竦んだのだった。随全寺《ずいぜんじ》という法華宗の檀那寺《だんなでら》の古石垣が、河原のように崩れたままになっている草叢のあたりに、見廻すまでもなく、おびただしい烏の群が一|集《かた》まりになって降りて宿無犬が十匹余りも遠巻きに吠え立てている。犬が進むと烏が飛び立ち、烏が下りれば犬が退く。その争いを彦兵衛は往来からしばらく眺めていた。御霊廟を始め、杉林が多いから、烏はこの辺では珍しくないが、その騒ぎようの一方ならぬのと、犬の声の物凄さが、岡っ引彦兵衛の頭へまず不審の種を播いたのである。
手頃の礫《こいし》を拾い集めた彦兵衛は、露草を踏んで近づきながら石を抛って烏と犬とを一緒に追い、随全寺の石垣下へ検分に行った。
そこに、夜来の雨に濡れて、女の屍骸が仰向けに倒れていた。が、彦兵衛は眉一つ動かさなかった。溝の傍に雪駄《せった》の切端しを見つけた時のように、手にした竹箸で女の身体を突ついてみた後、彼は籠を下ろして犬のようにしばらくそこら中を嗅ぎ廻った。そして屍骸の足許の草の根に、何やら小さい光ったものを見出すと、それを大事に腹掛の丼《どんぶり》の底へ納い込んでから、ちょうど横町を通りかかった煮豆屋を頼んで片門前町の目明し提灯屋亥之吉方へ注進させ、自分は半纏の裾を捲って屍骸の横へしゃがんだまま、改めてまじまじ[#「まじまじ」に傍点]と女とその周囲の様子へ注意を向けた。
咽喉を刳《えぐ》られて女は死んでいる。自害でないことは傷口が内部へ向って切り込んでいるのと、現場に何一つ刃物の落ちていないこととで、彦兵衛にも一眼でわかった。もし自刃ならば、切物を外部《そと》へ向けて横差しに通しておいて前へ掻くのが普通だから、自然、痕が外部へ開いていなければならない。それに、強靱な頸部の筋をこうも見事に切って離すには、第二者としての男の力を必要とすることをも彦兵衛はただちに見て取った。いうまでもなく女は何者かの手にかかって落命したものである。とはいえ、辺りにさまで格闘《あらそい》の跡が見えないのが、不思議と言えばたしかに不思議であった。しかし、朝方かけて降りしきったあの雨でそこらに多少の模様がえが行われたとも考えられる。現に、咽喉の切口なぞ真白い肉が貝のように露出《あらわ》れているばかりで、血は綺麗に洗い流されている。
二十歳代を半ば過ぎた女盛りのむっちり[#「むっちり」に傍点]した身体を、黒襟かけた三|条《すじ》縦縞《たてじま》の濃いお納戸《なんど》の糸織に包んで、帯は白茶の博多と黒繻子《くろじゅす》の昼夜《ちゅうや》、伊達に結んだ銀杏返《いちょうがえ》しの根も切れて雨に叩かれた黒髪が顔の半面を覆い、その二、三本を口尻へ含んで遺恨《うらみ》と共に永久《とわ》に噛み締めた糸切歯――どちらかといえば小股の切れ上ったまんざらずぶ[#「ずぶ」に傍点]の堅気でもなさそうなこの女の死顔、はだけた胸
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