、案の定暢気そうな藤吉を見出してそのまま躙《にじ》り寄ると何事か耳許へ囁いた。
「遣ったり取ったり節季の牡丹餅《ぼたもち》か――。」
こんなことを言いながら藤吉は他意なく棋盤を叩いていたが、勘次の話が終ると、つ[#「つ」に傍点]と振り向いて、
「手前、何か、その格子の瑕《きず》ってのはたしかか。」
と訊き返した。勘次は大仰《おおぎょう》に頷いて胸板を一つ叩いて見せた。
「三吉の野郎が自害と踏んでいるなら、今さら茶々を入れる筋でもあるめえ。」
と藤吉の眼は相手の差す駒から離れなかった。勘次はあわててまた耳近く口を寄せた。
「うん。」
一言言って釘抜藤吉はすっく[#「すっく」に傍点]と立ち上った。脚が曲っているせいか、坐っている時よりいっそう小男に見えた。
「彦も昼には帰るはずだ。どれ、じゃ一つ掘り返しに出かけるとしょうか。」
床屋の店を一歩踏み出しながら彼は勘次を顧みた。
「巣へ寄って腹拵えだ――勘、ど[#「ど」に傍点]えらい道だのう。」
それから小半時後だった。二人は首筋へまで跳ねを上げて、汁粉のような泥道を竜泉寺の方へ拾っていた。すぐ後から、これだけは片時も離さない紙屑籠を担いで葬式彦兵衛が面白くもなさそうに尾《つ》いて行った。
三
栄太の死骸は町組の詰所へ移されたが、凶事のあった杵屋の家は近所の者が非人を雇って固めてあった。顔の売れている釘抜藤吉は勘次を伴れたままずう[#「ずう」に傍点]っと奥へ通って行った。表口《いりぐち》の群衆に混って彦兵衛は戸外から覗いていた。
死体の倒れていた台所ではちょっと辺りを見廻しただけだった。すぐ格子戸へ引き返して、建仁《けんにん》寺を嗅ぐ犬のように、鼻を一つ一つの桟とすれすれに調べ始めた。真中から外部へ向って右手寄り四本目の格子の桟に、例えば木綿針ほどの細い瑕跡があって、新しく削られたものらしく白い木口が現れていた。土間の隅へ掃き溜められて灰をかけた血の中へ指を突っ込んだ藤吉は、その指先を懐紙へ押して見ながら
「うん、一昨日の子の刻だな。」
と独言のように呟くと、格子を開けて戸外へ出た。まだ立ち尽している閑暇《ひま》な人々は好奇の眼を見開いて道を明けて彼の行動を見守った。人馬の往来も絶えるほど一日一晩降り抜いた昨日の雨に、大分洗い流されてはいるものの、それでも、格子の中央《なか》の下目のところに足跡らしい泥の印されてあるのがかすかながらも認められた。藤吉は外側に立って指を開いてその寸法を計ると、今度は一尺ほど格子を離れてその地点と格子の泥跡とを眼で一直線に結びつけて、しゃがんで横から眺めていたが
「犯人《ほし》は――。」
と言いかけて勘次の耳を引っ張りながら、
「――小男だぜ。優型の、背丈はまず四尺と七、八寸かな。」
今さらながら呆然として勘次は藤吉の顔を凝視めていた。群集の向うに葬式彦兵衛の顔を見つけると、つかつか[#「つかつか」に傍点]と歩み寄って藤吉は低声でささやいた。
「一足さきへ番屋へ行って三吉に渡りをつけておきねえ。おいらもすぐお前の跡を追っかけるからな。」
が、再び家の中へ引き返した釘抜藤吉は台所の板の間に凝然《じっ》と棒立ちになって、天井を見上げたまま動こうとはしなかった。凍りついたように天井板の一点から彼の視線は離れなかった。そこに、雨洩りの模様に紛れて羽目板の合せ目に遺っているのはたしかに血の拇指の跡であった。
公儀役人の引き揚げた後で番屋はわりにひっそりしていた。煙草の火に炭団《たどん》を埋めた瀬戸の火桶を中に、三吉、伊勢源、それから下っ引彦兵衛と、死んだ栄太と親交のあったという幇間《たいこもち》桜井《さくらい》某《なにがし》が、土間隅に菰を被せた栄太の死骸を見返りながら何かしきりに故人の噂でもしているらしかった。そこへ勘次を伴れて釘抜藤吉は眼で挨拶してはいって行った。
「三、久し振りだのう。」
言いながら彼はすでに菰をはぐって、死体を覗き込んでいた。一同は事新しくその周囲へ集った。不愉快そうな三吉の眼光《まなざし》を受けても、袖の先で鼻の頭を擦《こす》ったまま勘次はけろりと澄ましていた。肉の塊のように焼け爛れた死顔をしばらくみつめていた藤吉は、やにわに死人の袖を二の腕まで捲くり上げながら、背後の幇間を顧みて口から出任《でまか》せに言った。
「この栄太さんの馴染みってのは、たしか仲の町岩本楼の梅の井|花魁《おいらん》だったけのう。」
「なんの、」と幇間は拳を打つような手つきを一つしてから、
「弘法も筆の過り、閉口へいこう。一文字の歌右衛門姐さんと二世を契った仲――。」
皆まで聞かず、藤吉は葬式彦兵衛に命令《いいつ》けた。
「手前吉原まで一っ走りして、その歌右衛門さんとやらに知らせて来い。――それから。」
と彦兵衛の後を追いながら何やら二言三言耳打ちした。その間に勘次は死骸の肌を開いて傷痕を出していた。正面《まえ》へ廻って藤吉はその柘榴《ざくろ》のような突傷を撓《た》めつ眇《すが》めつ眺めていたが、いっそう身体を伏せると、指で傷口を辿り出した。それから手習いをするように自分の掌へ何かしら書いていた。
「出刃でやらかしたってえのかい?」
と三吉を振り返った。三吉はうなずいた。そしてついでに懐中から公儀の始末書状を取り出して見せた。が、それには眼もくれずに、
「丑満《うしみつ》近え子《ね》の刻に、相好のわからなくなるほどの煮え湯を何だってまた沸かしておきゃがったもんだろう。」
死骸を離れながら藤吉は憮然としてこう言ったが、急に活気を呈して、
「勘、手前見たか、あれを。」
「何ですい?」
「とち[#「とち」に傍点]るねえ、天井板の指痕をよ。」
「へえ、見やした。たしかに見やしたぜ。」
「ふうん。」と、藤吉は考えていた。と、差配の伊勢源へ向き直って、
「きっぱり黒白をつけてえのが、あっし[#「あっし」に傍点]の性分でね、天下の公事《くじ》だ。天井板の一枚ぐれえ次第によっちゃ引っぺがすかも知らねえが、お前さん、四の五の言う筋合いはあるめえのう。」
「四の五のなんぞと滅相もない。親分のお役に立つなら、はい、何枚でも――。」
と伊勢源は狼狽して言った。
藤吉は会心らしく微笑した。
「勘、行って来い。」
「合点だ。」
声と共に勘弁勘次はほど近い杵屋の家へ出掛けて行った。
後で藤吉は人々の口から、助三郎夫婦がときどき犬も食わない大喧嘩をしたことや、死んだ栄太は助三郎の実の兄で、ちょくちょく杵屋へ出入りしていたが、穏和な弟とは似ても寄らず、箸にも棒にもかからない悪党であったこと、栄太が自害した一昨日の暮れ早々、助三郎夫婦は女房お銀の実家甲府在へ旅立ちしたことなど、それとなく聞き出したのであった。栄太の自殺が一昨日の真夜中に行われたとすれば、戸外からはいった形跡のない以上、助三郎夫婦の発った時栄太はすでに留守宅にいたはずであった。が、そもそも何のために自分自身の腹を突いたか――。
「甲府の助さんとこへ飛脚を立てずばなるまい。」と、伊勢源が一座の沈黙を破った。
「はっははは――。」
突然藤吉が哄笑した。一同は唖然として彼を見守った。
「まずまずその心配にも当るめえ。」
と彼は面白そうに言ってのけた。
「なにさ、今すぐ解るこったが、飛脚を立てるなら三途川《さんずのかわ》の渡し銭を持たしてやらなくちゃなるめえって寸法よ。なあ三吉、手前も合点長屋の巣立ちじゃねえか、よっく玉を見ろい、そりゃあ、お前出刃の傷じゃねえぜ。匕首だ。九寸五分の切れ味だい、玉の傍に出刃を置いたところが、はははは、これが真物《ほんもの》の小刀細工ってもんだろうぜ。一昨日からの仏ってことは肌の色合いと血の粘りで木偶《でく》の坊にも解りそうなもんだ。昨日はあの雨で一日|発見《めっか》らずにすんだだけのことよ。」
そこへ勘次が息せききって帰って来た。
「親分、あの板を剥がして裏天井の明《あか》り取りからずら[#「ずら」に傍点]かったに違えねえ。埃の上に真新しい足跡だ。」
「えっ。」と並居る連中は驚きの声を揚げた。
「ふん。大方そんな狂言だろうと思ったところだ。」
と藤吉は改めて人々の顔を見渡した。
「この界隈に左手利きはいねえか。」
伊勢源と幇間が一緒に叫んだ。
「お銀さん!」
「違えねえ。」
と藤吉は笑った。
「格子の外から刺しておいて戸へ足をかけて刃物を抜いたことは格子の瑕でも見当はつくが、その足跡から見ると、お銀さんてえのは、四尺七、八寸の優形で女の身の持ち方知らずに刃を下へ向けたところから、左手利きをそのまま出して刀痕《あと》がの[#「の」に傍点]の字――。」
「おう、親分え。」と、戸口で大声がした。
「彦か、いいところへ帰って来た。して首尾は?」
「なに、お前さん。」と吉原から帰って来た彦兵衛は、小気味よさそうに独特の微苦笑を洩らしながら言葉をつないだ。
「一文字の歌と栄太の野郎とは、馴染みどころか、二度《うら》を返したばかりの浅え仲だってまさあ。そんなことより耳寄りなのは、栄太の二の腕に――。」
「お銀|命《いのち》の刺青か。」
と藤吉が後を引き取った。
「えっ。」
と叫びながら影法師三吉は兎のように隅へ飛んで行って、めりめりと死骸の袖を破った。杵屋助三郎の腕は女のように白くて黒子《ほくろ》一つなかった。
人々は愕然と顔を見合った。
「栄太とお銀で仕組んだ芝居だあな。お銀が戸外から夫の助三郎を突いた後で、栄太の野郎がはいり込んで、内部《なか》から全部戸締まりし、出刃に血を塗って捨てておいたり、煮え湯をかけてそっぽ[#「そっぽ」に傍点]をむいたりしやがって、手前は天井からどろん[#「どろん」に傍点]をきめただけのことよ。まあ、あまり遠くへも草鞋は穿くめえ、三吉、犯人《ほし》を挙げるのは手前の役徳、あっし[#「あっし」に傍点]ゃあこれから海老床さ、へっへ。えれえおやかましゅうごぜえやした。皆さん、御免下せえやし。」
藤吉の尾《しり》につきながら勘弁勘次は、彦兵衛を返り見た。
「彦、紙屑籠を忘れるなよ。」
葬式彦兵衛は眼だけで笑って口の中で呟いた。
「ああ、身も婦人心も不仁慾は常、実《げ》に理不尽の巧《たくみ》なりけりとね。」
四
深川木場の船宿、千葉屋の二階でお銀栄太の二人が影法師三吉手下の取手に召捕られたのは、翌る四年も秋の末、利鎌《とがま》のような月影が大川端の水面《みなも》に冴えて、河岸の柳も筑波颪に斜めに靡《なび》くころであった。
白洲へ出てはさすがの二人も恐れ入って逐一白状に及んだ。
従前から二人の仲を臭いと見ていた助三郎は、嫌がるお銀を無理にしばらく江戸を離れてるようと、甲府を指して発足したが、小一町も来ない内に後から栄太に追いかけられて、世間の手前途上の口論《いさかい》が嫌さに自宅へ引っ返したのであった。栄太の難題はいつもと同じに金の無心から始まった。金子の入要な旅先のことではあり、そうかと言って拒絶《ことわ》れば後が怖いし、ほとほと困じ果てた助三郎は、言われるままにお召の上下を脱ぎ与えて栄太と衣裳を交換したのであった。が、栄太の助けに力を得て、お銀はいっそう甲府落ちを拒み出した。平素からの疑いが確かめられたように感じて、助三郎は思わずかあっ[#「かあっ」に傍点]となった。醜い争いが深夜まで続いた後、折柄|篠《しの》突くばかりの土砂降りの中をお銀は戸外へ不貞腐れて出たのだった。後を追って助三郎が格子へ手を掛けた時、雨に濡れた冷たい刃物が彼の脾腹《ひばら》を刳《えぐ》った。一切の物音は豪雨が消していた。それから後の姦夫姦婦の行動は釘抜藤吉の推量と符節を合わすように一致していて、時の奉行も今さら藤吉の推理力に舌を巻いたのであった。
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安政四年十二月白洲に於て申渡し左の通り
馬道無宿 栄太 三十六歳
其方儀弟妻阿銀と密通致し其上阿銀の悪事に荷担致し候段重々不届に付町中引廻しの上浅草に於て獄門申付くる事
竜泉寺町 ぎん 二十四歳
其方儀夫兄栄太と密通致
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