言えばもちろんそれまでである。けれども、突いた後で気が弱ってすぐその場へ取り落す方が自然ではなかろうか、と勘次は考えた。なにしろ窓には内部から桟が下ろしてあることではあり、表にも裏にも中から心張棒が支《か》ってあった事実から見て自殺という説には疑いを挾む余地がなかった。兄弟とはいえ好人物の助三郎とは違い、人にも爪弾《つまはじ》きされていたという栄太の死顔を、鼻の先へやぞう[#「やぞう」に傍点]を作ったまま勘次は鋭く見下ろしていた。無惨に焼けた顔は、咽喉の下まで皮が剥けていて、一眼では誰だか見当がつかなかった。お神輿栄太ということは差配の伊勢源と近所の店子たちの証言によって判然したのであった。
 今朝早くいつものように此町《ここ》を通りかかった三河島の納豆売りの子供が、呼声も眠そうに朝霧の中をこの家の前までくると格子の中から異臭が鼻を衝いた。隙間から覗いて見ると赤黒い物がどろっ[#「どろっ」に傍点]と玄関に流れていた。格子戸の内側にも飛ばしりがあった。たしかに血だと思った子供は、胆を潰して影法師三吉の番屋へ駈け込んだのであった。時を移さず三吉は腕利きの乾児を伴れて出張って来た。土間の血が点滴となって台所へ続き、そこの板敷に栄太が死んでいたのであった。苦しまぎれに水を呑みに流し許まで来たが、煮えくり返っていた鉄瓶の湯を被って、それが落命の直接の原因となったらしかった。勘次は俯伏しの死骸を直して傷痕《きずあと》を調べようとした。死体の手触りや血の色からみて、どうしても二十|時《とき》以上は経っていると、思った。一昨日の夜中、助三郎夫婦が、甲府へ向けて発足した後に自害したものらしかった。無人《むにん》の留守宅を助三郎は兄の栄太に頼んだのかも知れない。が、平常《ふだん》から兄弟仲の余りよくなかったと言う人々のひそひそ話を勘次はそれとなく小耳に挾んだ。
「お役人の見える前に仏を動かすことは、勘さん、はばかりながら止してくんねえ。」
 苦にがしそうに三吉は言い放った。と、表の方に人声がどよ[#「どよ」に傍点]めいて検視役人の来たことを知らせた。それを機会《しお》に勘次は無言のまま帰りかけた。勇みの彼の心さえ暗くなるほど、栄太の死体は酸鼻を極めていた。
「帰るか、そうか、藤吉親分へよろしくな。」
 追いかけるような三吉の声を背後に聞き流して、勘次は返事もせずにぶらり[#「ぶらり」に傍点]と戸外《そと》の泥濘《ぬかるみ》へ降り立った。が、出がけにその辺の格子の一つに小さな新しい瑕《きず》があるのを彼は素早く見て取った。
 それとなく近所で何か問い合せた後、彼は八丁堀の藤吉の家を指してひたすら道を急いだ。

      二

「真っ平御免ねえ。」
 がらり[#「がらり」に傍点]と海老床の腰障子を開けた勘次は、そこの敷居近くに釘抜藤吉の姿を見出してわれにもなくほっ[#「ほっ」に傍点]と安心の吐息を洩らした。
「勘、昨夜は山谷の伯父貴のもとで寝泊りか――。」
 例によって町内の若い者を相手に朝から将棋盤に向っていた藤吉は勘次の方をちらっ[#「ちらっ」に傍点]と見たなり吐き出すようにこう言った。吉原《なか》で大尽遊びをして来たと景気のいい嘘言《うそ》を吐こうと思った勘次は、これでいささか出鼻を挫かれた形で逡巡《たじたじ》となった。
「どうしてそんなことがお解りですい?」
 端折った裾を下ろしながら彼は藤吉の傍へ腰を掛けた。一流の豪快な調子で藤吉は笑った。
「お前の足駄には赤土がついてるじゃねえか。」
 と彼は言った。
「して見ると今|道普請《みちぶしん》をしている両国筋を通って来たらしいが、あの方角はここから北に当る。北と言えばさしずめ北廓《なか》だが、手前と銭は敵同士、やっぱり山谷の伯父貴の家でお膳の向うで長談義に痺《しび》れを切らしたとしか思えねえじゃねえか、え、こう、勘。こんな具合にいろいろ見当を立てて見てよ、それを片っ端から毀して行って、おしまいの一つに留めを刺して推量を決めるってのが、お前の前だが、これはこの目明し稼業の骨《こつ》ってもんだぜ。」
 そのころ八丁堀の釘抜藤吉といえば、広い江戸にも二人と肩を並べる者のない凄腕の目明しであった。さる旗本の次男坊と生れた彼は、お定《き》まり通り放蕩に身を持ち崩したあげくの果てが七世までの勘当となり、しばらく土地を離れて雲水の托鉢僧《たくはつそう》としゃれて日本全国津々浦々を放浪していたが、やがてお膝下へ舞い戻って来て、気負いの群から頭を擡《もた》げて今では押しも押されもしない、十手取繩の大親分とまでなっていたのであった。脚が釘抜のように曲っているところから、釘抜藤吉という異名を取っていたが、実際彼の顔のどこかに釘抜のような正確な、執拗《しつよう》な力強さが現れていた。小柄な貧弱な体格の所有主《もちぬ
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