言のようにつぶやいた。
 折り重なる日光の山々、男体《なんたい》、女体《にょたい》、太郎山、丸山などが、秋の空気の魔術か、今日は、眉にせまるように近々と望まれる。
 お蓮様の言葉を聞きつけたお美夜ちゃんが、愛らしくそばへ寄りたって、
「ねえ、母ちゃん、ここはもう日光なんだろう? いつお爺ちゃんのところへゆけるの?」
 お蓮様は、屈託気《くったくげ》に、帯の胸元へほっそりした両手をさしこんで、
「サア、それが母さんにも、サッパリわからないんですよ」
「アラ、じゃ、まだここは日光じゃないの?」
「ほほほほ、いいえ、日光は日光なんですけれど、いつお爺ちゃまにお眼にかかれるか……それがねえ」

       二

 じっと考えこんだお蓮様は、腑に落ちかねるおももちで、
「ほんに、どうしたというのでしょうねえ。あの鹿沼新田のお関所でお調べを受けたとき、母娘《おやこ》かということを妙に念を入れてきいていたようだけれど」
 風に話しかけるように、お蓮様はひとりごとをつづけて、
「母娘ということに、何か意味があるかしらん……ハイ、たしかに母と娘だと言うと、お役人衆がマアたいそう喜んで、さっそく二人を駕籠に乗せて、まっすぐにこの家へ連れてこられたのだけれど――」
 その途中。
 駕籠わきに引き添う侍たちのヒソヒソ話に。
「大切な客人」とか、「運よく母娘づれが通りかかるとは、幸《さい》さきがよい」とか――。
 そうした言葉が、チラチラとお蓮様の耳にはいって、駕籠のなかの彼女に、しきりに首をひねらせたのだったが。
 この百姓家は、前に用意がしてあったものとみえる。
 きっと持主から買いとって、家を明けさせ、客を迎える準備をしておいたものとみえて、ここらの山奥の百姓家にしては、内部は小ざっぱりと掃除され、最近手を入れたあとも見られるのである。
 翌朝にでもなれば、きっと役人の前へ呼び出されて、どうしてこういう予期もしない好遇を受けるのか、その理由《わけ》もわかるであろうから、そのとき自分たち母娘は、この日光造営方の工人の一人、彫刻名人作阿弥の身寄りの者で、彼をたずねて入晃《にゅうこう》したということを、申しあげればよい……。
 お蓮様はそう思って、旅の疲れにこの思いがけないもてなしをいいことに、その夜は手足をのばして休んだのだったが……。
 翌日になっても、翌々日がきても、イヤ、何日たっても、なんの音沙汰もないばかりか、さながらこの家へとじこめられたなり、すっかり忘れられてしまったよう――。
 どこから運んでくるのか、三度三度の食事などは、ごちそうずくめ。
 身のまわりの用を達するには、ちゃんと侍女がつけられているし、なんの不足があるわけではないが。
 これでは、まるで、日光へ寝ころびに来たようなもの。作阿弥に会いたいということを伝達したいにも、その方法がない。
 唖なのです。……その唯一の腰元というのは。
 まず、退屈しはじめたのはお美夜ちゃんで、
「ねえ、母ちゃん。日光の町のほうへ、お爺ちゃんを探しにゆきましょうよ」
「そうねえ。いつまでもここに、ぼんやりしていることもない。途中でお役人様に会ってきいたら、おじいちゃんのいどころも知れるかもしれない」
 べつに、戸じまりが厳重だというわけでなし、垣根が結いめぐらしてあるのでもないから、お蓮様はお美夜ちゃんの手を引いて、庭づたいに、雑木林の小みちをたどろうとすると。
 忽然《こつぜん》として、五、六人の足軽風の者が現われて、そのまま家へ追いかえされてしまう。
 体《てい》のいい監禁ということに、お蓮様が気がついたのは、このときからだった。
「江戸から、当|山内《さんない》の作阿弥という者をたずねてまいった者です。どうぞ、作阿弥にお会わせくださいますよう……」
 お蓮様の必死の願いにも、足軽どもは相手になろうともしない。

       三

 この、裏見の滝道の林の中の一軒家。
 あそこに住む女と娘は、狂人と白痴だから、何を言っても取りあげるな……警備の役人、足軽たちは上司から、こう言い聞かされている。
「ああ見えていて、狂気だそうだ。娘はまた、生まれつきの馬鹿で、母娘《おやこ》そろってあのありさまとは、なんとも哀れなものじゃのう」
「御造営竣工まで、厳のうえにも厳なる警戒を要する日光御山内に、どうしてまた、ああいう母娘づれの狂人などが、舞いこんできたのであろう」
「さればサ、どこからともなくフラフラッと、鹿沼新田《かぬましんでん》のお関所にさしかかったと申すことじゃ」
「捕えてただしてみても、何を言うやらさっぱり要領を得ぬ。引き渡そうにも、身もとは知れぬし、と言って、ああいう者をさまよわせておいては、清浄森厳《せいじょうしんげん》であらねばならぬ御造営の眼ざわりじゃ。造営奉行の面目にもかかわる」

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