り、
「奥と言ってもひとまたぎなんですが、おや、また先生は大の字に引っくりかえっておいでですよ。アノ、泰軒先生、屋根屋の銅義《どうよし》さんという人がお見えですよ」
と取りつがれた銅義は、
「ぴらごめんねえ。あっしゃア、先生様にさばいてもらって、かかあのちくしょうを追ん出そうと思いやしてね」
ズカズカあがりこんで、泰軒居士の前にピタリと膝を並べた。
例によって、巷の身の上相談なので。
このトンガリ長屋は、泰軒先生の徳風にすっかり感化されて、今ではトンガリ長屋とは名のみ、ニコニコ長屋になってしまって、江戸名物がひとつ減ったわけだが。
このごろでは、先生の高名を聞き伝えて、こうして遠くから、人事相談を持ちこんでくるんです。
「おめえが泰軒てエ親爺《おやじ》かい。お初《はつ》に……わっしゃア深川の古石場に巣をくってる銅義ってえ半チク野郎だがネ。ひとつおめえさんに聞いてもらいてエのは、わっしゃあ性分で、鯖《さば》ア見るのがきれえだってのに、かかあの奴やたらむしょうにあの鯖てエ魚がすきでごぜえやしてね。きょうも鯖、あしたも鯖、どうも家風に合わねえから――」
「なあんだ、大変な人がとびこんできたな」
泰軒が苦笑して、ムックリ起きあがったとき……。
「泰軒小父ちゃん、おいらも相談を持って来た」
と、門口からチョビ安の声。
五
女房の不平をまくしたてようとする銅義を、傍《かた》えに押しやったチョビ安は、お美夜ちゃんの手を取って、二人並んで泰軒先生のまえにすわった。
「おじちゃん! 聞いてくんねえ」
泰軒居士は、口をひらく前に、例によってその関羽《かんう》ひげをしごく。
「なんじゃ、安。いま来客中じゃ。あとで言いなさい」
「なんでエ! 相談のお客さんなら、おいらだってお客さんじゃアねえか」
とチョビ安は、小さな膝をすすめて、
「このお美夜ちゃんが、わからねえことを言ってきかねえから、ひとつ小父ちゃんから、納得のいくように説き聞かせてもらおうと思って……」
「オヤ! チョビ安、もうお美夜ちゃんと夫婦げんかとは、すこし早いぞ、ははははは」
銅義はすっかりお株をとられた形で、キョトンとして聞いている。
「お美夜ちゃんはお蓮さんといっしょに、日光へ行きてえというんだよ、作爺ちゃんのあとを追っかけて」
とチョビ安が言った。
それを聞くと、台所にいたお蓮さま、何を思ったか濡れ手をふきふき、ころがるようにそれへ走り出て、
「お美夜、おまえそれはほんとうかい? おお、よく言っておくれだ。わたしも、お祖父《じい》ちゃんとあんなあわただしい別れ方をして、気になってならないんだよ。ねえ、泰軒先生、後生ですから此児《これ》と二人で、日光へ行くことをお許しくださいまし」
意外な助け船に、お美夜ちゃんはたちまち眼をかがやかして、
「母ちゃんも、お爺ちゃんに会いたいの? じゃ、いっしょに行きましょうよねえ」
お蓮様の眼から、みるみる大粒な涙がわいて、いきなり彼女は、しっかとお美夜ちゃんの手をとった。
「おう、ありがとうよ、ありがとうよ。はじめて母ちゃんと言っておくれだねえ。わたしはそれを聞いて、もうもう……いつ死んでもよい」
ほうり落ちる涙が、だき寄せたお美夜ちゃんの顔へ。
お美夜ちゃんは気味わるそうにびっくりしたようすだったが、
「ええ、あたい、だんだん母ちゃんのように思ってきたわ。だからいっしょに泰軒小父ちゃんにお願いして、ねえ、早く日光へ――」
チョビ安はポカンと口をあけたまま、あっけにとられて、このありさまを見守っています。
「それじゃア、わっちは出なおしてきやすから、ヘイ」
引っこみのつかなくなった銅義、こそこそ框《かまち》へにじり寄ると、そこでチョビ安とお辞儀をして、出て行ったが、誰ひとりそれに気のつくものもない。
じっと眼をつぶって、考えこんでいる泰軒先生、
「安大人《やすたいじん》」
と静かに声をかけて、
「これをとめることはできまい」
「エ? するとなんですかい、お美夜ちゃんとお蓮さんを、日光へ出してやろうとおっしゃるんで?」
「父同様に育ててくれた祖父《そふ》に、一眼会いたいというお美夜坊のまごころ――また、不孝をしつづけてきた老父に、最後の詫びを願いたいというお蓮どのの赤誠《せきせい》。このふたつがいっしょになったのでは、どう考えても、それをとめる力は人間にはないぞ、チョビ安」
「なに言ってやんでエ、泰軒坊主メ! なら、おいらもいっしょにゆかア」
とチョビ安は、ぐいと眼をこすった。
六
「そううまく鴨《かも》が引っかかればよいがのう」
六尺棒をトンと土について、こう言ったのは、この関所をあずかる柳生の役人の一人、津田|玄蕃《げんば》というお徒士《かち》。
「そうさの。こう
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