くして、たったひとこと。
「おじちゃん、お爺ちゃんは、あの雲の下にいるの?」
 とききました。
 石金はびっくりして、
「え? 作爺《さくじい》さんかえ、オオオオ、かわいそうにナア。お美夜ちゃんはそうやって、作爺さんのあとばかりしたっているのだなア」
「ねえ、おじちゃん、あの赤い雲の下が、日光というところなの?」
「ウウン、日光はナ、もっとずっと北のほうだよ」
 と石金は手をあげて、暗く沈みかけている北の空を指さしながらひとり言。
「なるほどなア、産みの親より育ての親というくれえのもんだ。おふくろだというあのお蓮さんが急にけえってきて、木に竹ついだようにチヤホヤしてみたところで、お前はやっぱり、生まれ落ちるとから面倒を見てくれたあの作爺さんのことが、忘れられねえのだろう。無理もねえ、無理もねえ……」

       二

 フと、うしろにすすり泣きの声がする……ので、石金、ぎょっとして振り返ってみると!
 チョビ安です。いつのまにここへ来たのか、真岡《もうか》のゆかたの腕まくりをして、豆|紋《しぼ》りの手拭をギュッとわしづかみにした小さなチョビ安が、お美夜ちゃんと石金のすぐうしろの、用水桶のかげに立って、
「えエイちくしょう、泣かしゃアがる」
 その豆絞りで、グイと鼻の先をこすりながら、チョビ安、二人の前へ現われてきた。
「こう、石金の爺《とっ》つあん、まあ、聞いてくんねえ。おめえも知っての通り、あの作爺さんが柳生対馬の家老に連れられていってから、お美夜ちゃんはおめえ、食も咽喉《のど》へ通らねえ始末で、夜も昼も、こうして泣いてばかりいるんだよ。それを見ると、おいらも――おいらも、泣けてくらあ」
「ア、安さん、お前さんそこにいたの? いま石金のおじさんに聞いたんだけど、日光というのは、あの、ホラ、むこうの伊勢甚《いせじん》の質屋の蔵の上に、火の見やぐらが見えるだろう? あのやぐらの右のほうに、お魚の形をした小さな雲が流れているわね。あの下が日光なんだとサ。お爺ちゃんは、あそこにいるんだねエ。あたい、あの雲になりたい」
「アレだ」
 とチョビ安は、ホトホト弱ったという顔で、石金を振りかえり、
「おウ爺《とっ》つあん、子供につまらねえことを言わねえでもらいてえ。おいらがなんとかして、忘れさせようとしているのに、爺つあんがそんなよけいなことを言っちゃア、お美夜ちゃんはますますセンチになるばかりじゃアねえか」
 きめつけられた石金は、
「まあサ、おめえが来たから、おいらも安心したよ。ひとつ水いらずで、とっくりと納得させるがいいワサ」
 言いすてて、家へはいる石金へ、
「何いってやんでエ」
 と舌を出したチョビ安、
「サ、お美夜ちゃん、こんなところに立ってると、蚊に食われるよ。そんなに泣いてばかりいた日にゃア、黒瞳《くろめ》が流れてしまうぜ、ホラ、おいらを見ねえ……東西東西! 物真似名人、トンガリ長屋のチョビ安|太夫《だゆう》、ハッ! これは、横町の黒猫《くろ》が、魚辰《うおたつ》の盤台をねらって、抜き足差し足、忍び寄るところでござアい!」
 ピョンとひとつとんぼ返りを打ったチョビ安、大道に四つんばいになって、泥棒猫のかっこうよろしく、おかしなようすでしきりにお美夜ちゃんの足もとをはいまわる。
 お美夜ちゃんの悲しみをなぐさめようとの一心。
 なんとかしてニッコリ笑わせようと、チョビ安一生懸命だ。
「サテ、おつぎはと――こけが刺子《さしこ》をさかさまに着て、火事へかけだすところ!」
 自分で口上を言いながらの一人芝居だから、イヤそのいそがしいことといったら。
 ゆかたの裾をスッポリ頭からかぶって、あわてふためいたしぐさでお美夜ちゃんのまわりを走りまわったが、
「オヤ! これでもまだ笑わねえナ。よし、それでは……と、アそうだ、こんどは、按摩《あんま》が犬にほえられて立ち往生の光景! ハッ!」
 ポンと手をたたいたチョビ安、案山子《かかし》のような形にお美夜ちゃんの前につっ立ちながら、そっとうす眼をあけてうかがうと、お美夜ちゃんはそれを見もせずに、涙にぬれた眼をいぜんとして、北の空へ上げている。
「こんなに骨を折っても、どうしても笑わねえのかなア……ああくたびれちゃった」
 チョビ安はべそをかかんばかり、ペチャンと往来にすわってしまった。

       三

「だって、あたいがお父ちゃんのように思ってきた、あのお爺さんがすきなのは、当たりまえじゃないの」
 とお美夜ちゃんは、やっと涙を拭いて、
「安さんだって、父ちゃんやお母ちゃんに会いたいって、いつもあの唄を歌うじゃないか」
 そう言われると、今度はチョビ安がしょげる番。
 だが、彼は、仔細らしく小首をひねって、
「そんなこと言ったって、おめえには、あのお蓮さんていう立派なおっ母が出てきた
前へ 次へ
全108ページ中85ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング