かいの前には、たち切らざるをえなかった。
ひややかに主水正をかえりみて、
「まいりましょう。御案内くだされたい」
ここへ来るときは、いくら日本一の名匠だとは言っても、たかが手仕事の工人《こうじん》、たんまり金銀を取らせるといったら、とびついてくるだろうと思っていた田丸主水正。
いっかな動きそうにもない作爺さんを相手に、懸命な押し問答のすえ、やっと今、腰を上げさせることができたのだが、ああして話し合っているあいだに、主水正はすっかり、この裏店《うらだな》の見るかげもない老人の人柄に、気おされてしまったのでした。
気品といいましょうか。人間の深みといおうか。いずれにしても、身についた芸術のはなつ、金剛不易《こんごうふえき》の光に相変わらない。
「はっ」
と、思わず頭を下げた主水正、もうまるで従者よろしくの体《てい》で、
「先ほどより、お駕籠がお待ち申しあげておりまする。では、どうぞ……」
冷飯草履《ひやめしぞうり》を突っかけた作阿弥は、竹の杖を手に、一歩路地へ踏みだそうとした。
家のなかから土間、路地へかけて、長屋の人で身動きもならない。
「かわいそうに作爺さん、どんな悪いことをしたか知らねえが、あんな仏みてえな人だ、ゆるしてやればいいのに」
と、なかには何か勘《かん》ちがいして、作爺さんがお召捕《めしと》りにでもなったようなことを言うやつもある。ねいりばなをこの騒ぎにたたき起こされて、寝ぼけているんです。
「日光へ連れてゆかれるということだが、ときどきは長屋を思い出して、たよりをしてくだせえよ、ナア」
「ところが変わると、水あたりするというから、気をつけなさるがいいぜ、お爺さん」
別離は、このトンガリ長屋でさえも、いささかセンチだ。
上《あが》り框《がまち》に仁王立ちになった蒲生泰軒は、左右の手に、チョビ安とお美夜ちゃんの頭をなでながら、髯《ひげ》がものを言うような声で、
「蜀漢《しょくかん》の劉備《りゅうび》、諸葛孔明《しょかつこうめい》の草廬《そうろ》を三たび訪《と》う。これを三|顧《こ》の礼《れい》と言うてナ。臣《しん》、もと布衣《ほい》……作阿弥殿、御名作をお残しになるよう、祈っておりますぞ。お美夜坊と安のことは、拙者がどこまでも引き受けた」
泰軒居士、いつになくかたくなって、そう言ったときだった。
ドッと人ごみがどよめきわたったかと思
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