五

「大岡越前守殿……」
 と田丸主水正は、ソッとうち明けるように、早口につぶやいた。
 南町奉行大岡越前守が、このトンガリ長屋の作爺さんこそ稀代の名手、作阿弥であることを、そっと柳生家へ知らせてくれたというのである。
 聞く蒲生泰軒の眼が、チカリと光った。
「ウム、彼なれば早耳地獄耳、江戸の屋根の下の出来ごとは、一から十まで心得ているにふしぎはない。そうか、越州から知らせがあったのか」
 ひとりごとのような泰軒の言葉。
 が、どうして忠相《ただすけ》が、この作《さく》爺さんの前身を知っていたか、また、それをいかにして柳生へ通じたか、くわしいことはわからないけれど。
 いま泰軒の言ったとおり、江戸の大空に明鏡をかけたように、大小の事々物々《じじぶつぶつ》、大岡様の眼をのがれるということはないのですから、この、巷に隠棲する作阿弥を、かねてからそれとにらんでいたとしても、すこしのふしぎもないので。
 対馬守がこのたびの日光修営に、作阿弥の力を借りようとして、諸所方々へ手をのばしてその所在を物色しているということも、江戸じゅうに網のように張りわたしたお奉行様手付きの者の触手に触れて、すぐ越前の耳に入ったに相違ない。
 壺でさんざんいじめられた柳生藩を、越前守は、助ける心だったのでしょう。
 知らせを受けた対馬守はこおどりして、ただちに今宵。
 こうしてこの江戸家老|田丸主水正《たまるもんどのしょう》に、迎いの駕籠《かご》をつけて、長屋へつかわしたというわけ。ところが。
 さっきからいかに辞《じ》をひくうし、礼を厚うして出廬《しゅつろ》をうながしても、作爺さんの作阿弥は、いっかな、うんと承知しません。
 ひとたびは主水正の必死のすすめで、ひさしく忘れていた芸術心が燃えあがり、よっぽど、やってみようか……という気にもなったようすだが。
 いま自分がこの長屋を出るとなると、かあいいお美夜ちゃんやチョビ安は、どうなる?
 泰軒さんに頼んでゆけば、大事ないとはいうものの、老先《おいさき》の短い身で、この愛する二人に別れる悲しみを思うと、それは、点火された芸術的興奮に、冷却の水をそそぐに十分だった。
 泰軒先生は、しっかと腕をくんで、うつむいたまま、無言。
 チョビ安とお美夜ちゃんは、左右から作阿弥の膝にとりすがって、かあいい眉にうれいの八の字をきざみ、下から、
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