……ただごとではない。
「どこにいる、今たしかに、この座敷の中で彼奴《きゃつ》の声がしましたが」
「どこにいるとは、誰がです。あいつとはエ?」
 丹波の剣幕におどろき恐れて、お蓮様は一歩一歩、一隅へ下がりながら、ふと思った――峰丹波、乱心したのではあるまいか、と。
 が、そうでもないらしく、丹波は大刀を握りしめたまま、じっとお蓮さまをみつめて、
「今あなたは、このへやで誰と密談しておられた。いやさ、たれを相手に、お話しておられた?」
「誰を相手に? まあ、丹波。おまえは何を言うのです。わたしはここに、さっきから一人で……」
 沈思にふけっていたお蓮様、胸の思いが声に出て、思わず、あれやこれやとひとり言《ごと》をもらしていたことは、彼女自身気がつかない。
 もう、いつのまにか夕暮れです。夏の暮れ方は、一種あわただしいはかなさをただよわして、うす紫の宵闇《よいやみ》が、波のように、そこここのすみずみから湧《わ》きおこってきている。
 どこか坂下《さかした》の町家《ちょうか》でたたく、追いかけるような日蓮宗の拍子木《ひょうしぎ》の音《ね》。
 やっと丹波は納得したらしく、ふしぎそうに首をかしげると同時に、グット刀《とう》をおし反《そ》らした。
「ハテ、面妖《めんよう》な! いまたしかにどこかで、アノ、源三郎――伊賀の暴れん坊の笑い声が、響いたような気がしましたが」
 何やらゾッとするのをかくして、お蓮様はあでやかに笑った。
「ホホホ、仏様《ほとけさま》が笑うものですか、気のせいですよ――しじゅう気がとがめているものだから」
「それはそうと、お後室《こうしつ》様、あの丹下左膳とやらは、萩乃様をおつれして、いったいどこへまいったのでござりましょうな」
「そんなことはどうでもいいじゃないの。わたしはなんだか、もうもう気がふさいで……」
「ハッハッハッハ、それは、お一人でこんなところにこもって、何やかやともの思いをなさるからじゃ。サ、あちらへまいりましょう」
 と手を取らんばかり。
 丹波はお蓮様に従って、長い渡り廊下を道場のほうへ。
 残影で西の空は赤い。庭にも、もう暮色が流れて、葉末をゆるがせて渡る夕風《ゆうかぜ》は、一日の汗を一度にかわかす。
 と、ヒョイと見ると、その庭におり立って、手桶の水を柄杓《ひしゃく》で、下草や石|燈籠《どうろう》の根に、ザブリザブリとかけてまわっ
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