れをはいています。
対馬守と一風と、二丁のお駕籠が本陣の前にとまりました。
五
本陣の奥の広間。何やら双幅《そうふく》のかかった床の間を背に、くつろいだ御紋付きの着流し、燭台の灯にお湯あがりの頬をテラテラ光らせて、小高い膝をどっしりとならべているのは、柳生一刀流をもって天下になる対馬守様。
今宵のとまりは、この程ケ谷。
一夜の旅の疲れをやすめようとなさっているとき、近侍の者の知らせ……江戸家老田丸主水正の若党儀作というのが、狂気のように、ただいまお眼どおりを願ってお宿へ駈けこんだという注進だ。
普通ならば、若党が殿様にじきじきお話を申しあげるなどということは、あるべきはずのことではない。
何人もの口をとおして、言上もし、また御下問にもなるわけですが、旅中ではあり、何分急を要することなので。
破格のお取りあつかい。
「その儀作とやらを、これへ――」
となった。
で、今。
合羽を取っただけの旅装束のまま、裾をおろした若党儀作……彼は、神奈川の宿はずれで、名も知れない道中胡麻の蝿のために、大事の証拠品の壺をうばわれて、追いかけるまもなく、相手は、地殻を割れてのまれたように見えずなってしまったから、それからのちの儀作は、もう半狂乱、半病人。
申し訳ない。なんと言いひらきをしたらいいか――いくど切腹を思ったかしれません。
が。
さきの長い街道筋だ。これから柳生の里までのあいだに、またあの町人に出あうことがあるかもしれないと、それだけを唯一の頼みに、フラフラとつきものでもしたように、やっとこの夕方通りかかったのがこの程ケ谷の本陣の前。
今夜はお大名のおとまりがあるとかで、宿中なんとなくざわめいているから、片側に道をよけて通りながら、ヒョイと見ますと、
昔は殿様のお宿には、大きな立て札を出したもので――墨痕おどる一行の文字は、柳生対馬守御宿。
眼をこすった儀作、めざす国もとの殿様が、先知らせもなく江戸へのぼって来る途中、もうここまでおいでになっているとは……知らなかった、知らなかった――。
言いようのない不覚をとった以上、伊賀へ帰れば、斬られる。といって、このままおめおめ江戸へ引っかえせば、やっぱり主人主水正が、ただはおくまい。
どうせあの壺とかけかえに、消える命ときまっているなら、今ここで、藩主の御一行に出あったのをさいわい
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