お藤姐御は、キョトンとした眼を見はって、ふしぎそうにまじまじと、相手の顔を見上げるばかり。
 さて、ここで物語はとびます。
 そう駕籠わきの侍が、つづけざまに弁じたてても、駕寵のなかの一風宗匠はキョトンとした眼をすえて、まっすぐ正面をまじまじとみつめているばかり。
「江戸からの報告は、いまだに思わしくないことのみ。御在府の御家老田丸主水正様、捜索隊長の高大之進殿、いずれも何をしているのでござりましょうなア。もはやこけ猿がみつからぬときまれば、日光御修営はいかがになるのでございましょう」
 長旅の退屈まぎれに、話し続ける高股だちの武士は、ふっ[#「ふっ」に傍点]と気づいて、また苦笑をもらした。
「おう、そうであったナ。どうもいけない。一風宗匠は筆談以外には、話ができないということを、おれはすぐに忘れて……これではまるでひとりごとだ、あはははは」
 そのお駕籠には、柳生藩のお茶師、百と何歳になるかわからない奇跡的な藩宝、一風宗匠がゆられているのです。
 前を行く駕籠ひとつ――これはいうまでもなく伊賀藩主、柳生対馬守様。
 御行列です。突然出てきたのです、柳生の庄を。
 待ちくたびれたのでしょう。もうこうして、とまりを積んで東海道は大磯の宿を、一路江戸へ向かった。

       四

 延台寺《えんだいじ》内の虎子石。
 曽我の十郎が虎御前の家へ泊まった夜、祐経《すけつね》からはなされたスパイの一人が、十郎を射殺そうと射った矢が、この石に当たったという。
 それで十郎は命が助かり、いまだに石のおもては鏃《やじり》のあとが残っているそうです。
 大磯といえば、曽我兄弟……。
 そのほか。
 西行法師で名だかい鴫立沢《しぎたつさわ》――年老いた松の、踊りの手ぶりのようにうずくまる緑の丘の上に。
 あの辺に西行堂が……とお駕籠のなかから指さしながら、対馬守はひたすらに、行列を急がせて。
 伊賀の暴れン坊の兄。
 左手に樹木の欝蒼とした高麗寺山。
 ここらの海岸は、その昔、高麗《こま》人を移住させたあとで、唐《もろこし》ケ原《はら》と言ったといいます。
 花水《はなみず》川を渡ると、だんだん平塚へ近づいてくる。
 いくら待っても江戸からは、こけ猿の茶壺のあたりがついたという色よい便りはすこしもない。壺ののむ財産だけが、この際、柳生にとって日光お費用《ものいり》の唯一の目当てなの
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