呼び声……。
お蓮様にしたところで、十分この道場には未練があるし、それに、もともと丹波はきらいではないのですから、二言と否《いな》は申しません。
さっそく峰丹波をもって、この道場の相続に立てるという……すっかり準備がととのって、その夜、ただいまの時間でいえば、午後七時ごろに、道場の正面に亡き十方斎先生の位牌を飾り、その前に遺愛の木剣を置いて――これがまず式場です。
この不知火道場のしきたりとして、何かあらたまった式事の場合にはかならず家重代に伝わる鎧櫃《よろいびつ》を取り出して、その前でおごそかにとりおこなうということになっている。
新しい入門者があって、現代でいえば宣誓式のようなことをするのも、この鎧櫃の前。
免許皆伝の奥ゆるしをとった者が、その披露をする座にも、その鎧櫃を飾る。
ふだんは土蔵にしまってありますのを、むろん今日は、相続披露の式場へ運び出すことになりまして、二、三人の若い弟子が、
「貴公、そっちを持て。からだから軽いだろうが、大切な品だから、粗忽《そこつ》のないように、皆で気をつけて持ってゆかねばならぬ」
「そうだ。オイ、青木、お前も手を貸せ」
「よしきた。しかし、なんだな、峰先生は、やっと本願を達したというものだな。え、馬鹿を見たのはあの伊賀の暴れん坊だよ。婿の約束はぐれはま[#「ぐれはま」に傍点]になる。こけ猿の茶壺は盗まれる、故先生のとむらいの席へのりこんで、りっぱに見得をきったまではいいが……」
「そうだテ、あとがよくねえ。本人だけは、あくまで萩乃様の良人のつもりでいても、内祝言《ないしゅうげん》はおろか、朝夕ろくに顔を見たこともない。おまけに、ああやって家来を連れて、無茶ながんばりをやっておるうちに峰先生のペテンにかかって、火事にまぎれておとし穴とは、よくよく運の悪いやつだな」
「しかし、それがしは萩乃さまがお気の毒でならぬよ。毎日毎日ああ泣いてばかりおられては、今に黒眼が流れてしまいはせぬかと――」
「まったくだテ。あの悲しみに沈んでおられた萩乃様を、どうで今夜の席へ引っぱり出すのかと思うと、おいたわしくてならぬ」
「サアサ、むだ口はあとにして、はよう席をととのえねばならぬ。峰先生がお待ちかねだ。よいか、そっちの端を持ったか、山口」
「ウム、サアゆこう……オヤ、これはどうした!」
「ヤ! おどろいたな、どうも……からだと思った
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