て行ったきり、この夜中に、やっと家を思いだしたようにブラリと帰って来たところだ。
 ほかには道楽はなし、邪気のない男だが、若いくせに、大の酒ッくらいなんだ、この屑竹は。
 おっかさんがおこるのも、むりはないので。
「そうして、帰ってくるかと思うと、私の言うことなんか馬の耳に念仏で、そうやって大の字なりの高|鼾《いびき》だ……よし! 今日は一つ、泰軒先生に申しあげて、じっくり意見をしてもらいましょう」
 と、たちあがったお兼婆さん、
「いま、泰軒先生を呼んでくるから、逃げかくれするんじゃないよ」
「ヘン! 逃げたくったッて、足腰が立たねえや。自慢じゃアねえが、宵から三升も飲んだんだ」
「マア、ほんとに、あきれて口がきけやアしない。母親を乾干しにしておいて、自分はそんなに酒をくらって歩くなんて」
 憤然として、入口の土間に下り立ったお兼婆さん、暗がりをまたいでかけ出す拍子に、
「オ痛タタタタタ!」
 何やらけつまづいたようす。
「なんだい! こんなところへこんなものころがしといて! 危いじゃないか。オヤ、茶壺だね。マア、うすぎたない茶壺だよ」
 下駄でイヤというほど蹴っておいて、お兼は、どぶ板をならして家を出た。

       二

 これはいったい、どうしたというのだ。
 おなじトンガリ長屋の、作爺さんの家だ。
 土間から表へかけて、いっぱいに下駄がはみ出したところは、縁起《えんぎ》でもないが、まるでお通夜のようだと言いたい景色。
 家の中には、例の泰軒居士を取りまいて、長屋の男、女、お爺さん、お婆さん、青年や若い女が、ギッシリすわって、作爺さんは、出もしない茶がらをしぼって、茶をすすめるのにいそがしい。
 かわいい稚児輪《ちごわ》のお美夜ちゃんがねむそうな眼をして、それをいちいち配っている。
「だから、じゃ――」
 と、泰軒先生は、あいかわらず、肩につぎのあたった縦縞の長半纏《ながばんてん》、襟元に胸毛をのぞかせて、部屋のまん中にすわっている。合総《がっそう》の頭をユラリとさせて、かつぎ八百屋《やおや》をしている長屋の若者のほうを、ふり向いた。
「だからじゃ。そのお町という女に実意があれば、どんなに質屋の隠居が墾望しようと、また父親《てておや》や母親《おふくろ》がすすめようとも、さような、妾の口などは振りきって、おまえのところへ来るはずじゃが」
 先生は、チラと若
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