く煤けている。
「どうじゃ、爺。その後は変わりないかな。こまったことが起きたぞ」
 対馬守は、そういって、よりつきから架燈口《かとうぐち》をあけた。家臣たちは、眼白押しにならんで円座にかける。
 三|畳台目《じょうだいめ》のせまい部屋に、柿のへた[#「へた」に傍点]のようなしなびた老人がひとり、きちんと炉ばたにすわって、釜の音を聞いている。
 老人も老人、百十三まで年齢《とし》を数えて覚えているが、その後はもうわからない、たしか百二十一か二になっている一風宗匠《いっぷうそうしょう》という人で、柳生家の二、三代前のことまですっかり知っているという生きた藩史。
 だが、年が年、などという言葉を、とうに通り過ぎた年なので、耳は遠いし、口がきけない。
 でも、この愛庵の帝釈山の茶室を、殿からいただいて、好んで一人暮しをしているくらいだから、足腰は立つのです。
 一風宗匠は、きょとんとした顔で対馬守を迎えましたが、黙って矢立と紙をさし出した。これへ書け……という意味。

       三

 誰の金魚を殺すかと、お風呂場での下相談の際。
 柳生は、剣術はうまかろうが、金などあるまい……とおっしゃった八代吉宗公のおことばに対して。
 千代田の垢すり旗下、愚楽老人《ぐらくろうじん》の言上したところでは――ナアニ、先祖がしこたまためこんで、どこかに隠してあるんです、という。
 果たしてそれが事実なら……。
 当主対馬守がその金の所在《ありか》を知らぬというはずはなさそうなものだが。
 貧乏で、たださえやりくり算段に日を送っている小藩へ、百万石の雄藩でさえ恐慌をきたす日光おつくろいの番が落ちたのだから、藩中上下こぞって周章狼狽。
 刃光刀影にビクともしない柳生の殿様、まっ蒼になって、いまこの裏庭つづきの帝釈山へあがってきたわけ。
 その帝釈山の拝領の茶室、無二庵《むにあん》に隠遁する一風宗匠は、齢《よわ》い百二十いくつ、じっさい奇蹟の長命で、柳生藩のことなら先々代のころから、なんでもかんでも心得ているという口をきく百科全書です。
 いや、口はきけないんだ。耳も遠い。ただ、お魚のようなどんよりした眼だけは、それでもまだ相当に見えるので、この一風宗匠との話は、すべて筆談でございます。
 木の根が化石したように、すっかり縮まってしまってる一風宗匠、人間もこう甲羅《こうら》をへると、まことに脱俗に仙味をおびてまいります。岩石か何か超時間的な存在を見るような、一種グロテスクな、それでいて涼しい風骨《ふうこつ》が漂っている。
 この暑いのに茶の十徳を着て、そいつがブカブカで貸間だらけ、一風宗匠は十徳のうちでこちこちにかたまっていらっしゃる。皮膚など茶渋を刷《は》いたようで、ところどころに苔のような斑点が見えるのは、時代がついているのでしょう。
 髪は、白髪をとおりこして薄い金いろです。そいつを合総《がっそう》にとりあげて、口をもぐもぐさせながら、矢立と筆をつき出したのを、対馬守はうなずきつつ受け取って、
[#ここから2字下げ]
「明年の日光御用、当藩に申し聞けられ候も、御承知の小禄、困却このことに候、腹掻っさばき、御先祖のまつりを絶てばとて、家稷《かしょく》に対し公儀に対し申し訳相立たず、いかにも無念――」
[#ここで字下げ終わり]
 対馬守がそこまで書くのを、子供のようににじりよって、わきからのぞきこんでいた一風宗匠、やにわに筆をもぎとって、
[#ここから2字下げ]
「短気はそんき、とくがわの難題、なにおそれんや」
[#ここで字下げ終わり]
 達筆です。一気に書き流した一風宗匠、筆をカラリと捨てて、ニコニコしている。
 対馬守はせきこんで、その筆を拾い上げ、
[#ここから2字下げ]
「宗匠、遺憾ながら事態を解せず。剣力、膂力《りょりょく》をもって処せんには、あに怖れんや。ただ金力なきをいかんせん」
[#ここで字下げ終わり]
 一風宗匠は依然として、植物性の静かな微笑をふくみ、
[#ここから2字下げ]
「風には木立ち、雨には傘、物それぞれに防ぎの手あるものぞかし、金の入用には金さえあらば、吹く雨風も柳に風、蛙のつらに雨じゃぞよ」
[#ここで字下げ終わり]
 さあ、対馬守わからない。

       四

「宗匠、何を言わるる。そ、その金がないから、予をはじめ家臣一同、この心配ではござらぬか」
 思わず対馬守は、口に出してどなったが、いかな大声でも、一風宗匠には通じないので。
 唖然《あぜん》たる対馬守の顔へ、宗匠は相変わらず、百年を閲《けみ》した静かな笑みを送りながら、また筆をとって、
[#ここから2字下げ]
「金は何ほどにてもある故に、さわぐまいぞえ。剣は腹なり。人の世に生くるすべての道なり。いたずらに立ち騒ぐは武将の名折れと知るべし」
[#ここで字下げ終わり]
 と書いた。百二十いくつの一風宗匠から見れば、やっと三十に近い柳生対馬守など、赤ん坊どころか、アミーバくらいにしかうつらないらしい。
 だから、いくら殿様でも対馬守、この一風宗匠に叱られるのは、毎度のことで、ちっともおどろかないが、金は何ほどでもある故に、騒ぐまいぞえ……という意外な文句に、ピタリ、驚異の眼を吸いつけられて、
「金はいくらでもあるという――」
 呻いたひとりごとが、すぐそばの寄りつきに待つ側近の人々の耳にはいったから、一同、わっと腰を浮かして、気の早い喜田川頼母《きたがわたのも》などは、
「金はいくらでもござりますと? どこに、どこに……」
 茶室へ駈けあがって来ようとするのを、寺門《てらかど》七|郎右衛門《ろうえもん》がとめて、
「まア、待たれい! この話には落ちがあるようだ。文献によれば、三百万両積んだ和蘭《オランダ》船が、唐の海に沈んでおるそうじゃから、それを引きあげればなんでもないとか、なんとか――」
「さよう、一風宗匠のいうことなら、おおかたそこらが落ちでござろう」
 と、もう一人が口をとがらし、
「城下のおんなどものかんざしを取りあげて、小判に打ち直せばいいなどとナ、うははははは、殿! かような危急な場合、たあいもない老人を相手に、いたずらに時を過ごさるるとは、その意を得ませぬ。早々御下山あってしかるべく存じまする」
「そうだ、そうだ、一風宗匠はおひとりで、夢の国にあそばせておくに限るて」
 まるで博物館あつかい――耳が聞こえないから、宗匠、何を言われても平気です。
 対馬守も、暗然として宗匠を見下ろしていたが、ややあって長嘆息。
「ああ、やはり年齢《とし》じゃ。シッカリしておられるようでも、もう耄碌《もうろく》しておらるる。詮ないことじゃ。ごめん」
 一礼して土間へおりようとすると対馬守の裾を、ガッシとおさえたのは一風宗匠だ。
 動かぬ舌をもどかしげに、恨むがごとく殿様を見上げておりましたが、すぐまた、筆に墨をなすって、
[#ここから2字下げ]
「かかる時の用にもと、当家御初代さまの隠しおきたる金子《きんす》、幾百万両とも知れず。埋めある場処は――」
[#ここで字下げ終わり]
 眼をきらめかせた対馬守、じっと宗匠の筆のさきを見つめていると、
[#ここから2字下げ]
「――こけ猿の壺にきけ」
[#ここで字下げ終わり]
 と一風の筆が書きました。

       五

 こけ猿の茶壺にきけ――対馬守が、口のなかでつぶやいて、小首を傾けるのを、じっと見つめていた一風宗匠は、やがて筆をとって懐紙《かいし》に、左の意味のことをサラサラと書き流したのです。
 それによると……。
 剣道によって家をなした柳生家第一代の先祖が、死の近いことを知ると同時に、戦国の余燼《よじん》いまだ納まらない当時のこととて、不時の軍用金にもと貯えておいた黄金をはじめ、たびたびの拝領物、めぼしい家財道具などをすべて金に換えて、それをそっくり山間の某地に埋めたというのである。
「山間の某地にナ」
 と対馬守は、眼をきらめかして、
「夢のごとき昔語りじゃ」
 と、きっと部屋の一隅をにらんだ。
 すると、殿の半信半疑の顔を見た一風宗匠は、また筆をうごかして、
[#ここから2字下げ]
「在りと観ずれば在り。無しと信ずれば無し。疑うはすなわち失うことなり」[#この行は底本では3字下げ]
[#ここで字下げ終わり]
「ふうむ……」
 腕こまぬいた対馬守のようすに、家来たちも、もうふざけるものはない。みんな円座から乗りだして、肩を四角くしている。
 対馬守は、筆談をつづけて、
[#ここから2字下げ]
「その儀事実とあらば、藩主たる予の今まで知らざりしこと、まことに合点ゆかず」
[#ここで字下げ終わり]
 一風宗匠の応答……。
[#ここから2字下げ]
「用なきときに子孫に知らすれば、無駄使いするは必定。さすれば、かかる場合もやと、まさかの役に立てんと隠しおきたる御先君の思召し相立たずそうろうことと相なり――」
[#ここで字下げ終わり]
 苦笑した対馬守は、
[#ここから2字下げ]
「されど、天、宗匠に嘉《か》するに稀有《けう》の寿命をもってしたれば、過《か》なかりしも、もし宗匠にして短命なりせば、いつの日誰によってかこれを知らん。家中のもの何人も知らずば、大金いたずらに土中に埋ずもれんのみ。心得難きことなり」
「その不都合は万々これなし。迂生《うせい》臨終のさいは、殿に言上いたすべき心組みに候いき」
[#ここで字下げ終わり]
 濶然《かつぜん》と哄笑した一風は、なおも筆を走らせ、
[#ここから2字下げ]
「大金の所在は、壺中にあり」
[#ここで字下げ終わり]
 急《せ》きこんだ柳生対馬守、
[#ここから2字下げ]
「壺中にありとは、これいかに」
「埋没の個処を詳細紙面にしるし、これをこけ[#「こけ」に傍点]猿の壺中に封じあるものなり」
[#ここで字下げ終わり]
 そのこけ猿の茶壺は、弟源三郎に持たせて、江戸へやってしまった!
 対馬守は、大いにあわてて、紙を掴みとるなり、大書しました。
[#ここから2字下げ]
「うずめある場所は、宗匠御存じなきや」
「何人もこれを知らず。その地図は、こけ猿の茶壺に封じ込めあるをもって、茶壺をひらけ」[#この行は底本では天付き]
[#ここで字下げ終わり]
 長い筆談に疲れたものか、宗匠はカラリと筆を投じて、不機嫌に横を向いてしまった。

       六

 大金をうずめてある個処を示した秘密の地図が、こけ猿の茶壺に封じてある――なんてことは、だれも知らないから、彼壺《あれ》はもうとうのむかしに、司馬道場に婿入りする源三郎の引出ものとして、江戸へ持たしてやってしまった!
 あとの祭り……。
 その黄金さえ掘り出せば、日光御修繕なんか毎年引き受けたってお茶の子サイサイ、柳生の里は貧乏どころか西国一はもちろん、ことによると海内《かいだい》無双の富裕な家になるやも知れない――。
「しまったっ」
 と呻ったのは、対馬守です。主君から一伍一什《いちぶしじゅう》を聞いた高大之進《こうだいのしん》、大垣《おおがき》七|郎右衛門《ろうえもん》、寺門一馬《てらかどかずま》、駒井甚《こまいじん》三|郎《ろう》、喜田川頼母《きたがわたのも》の面々《めんめん》、口々に、
「惜しみてもあまりあること――」
「まだなんとか取りかえす途《みち》は……」
「イヤ、かのこけ猿の茶壺は、茶道から申して名物は名物に相違ござるまいが、門外不出と銘うって永代当家に伝わるべきものとしてあったのは、さような仔細ばなしござってか。道理で――」
「それを知らずに、源三郎様につけて差しあげたのは、近ごろ不覚千万!」
「迂濶《うかつ》のいたりと申して、殿すら御存じなかったのじゃから、だれの責任というのでもござらぬ。あの老いぼれの一風が、もうすこし早くお耳に入れればよいものを……」
「だが、かような問題が起こらねば、一風は死ぬ時まで、黙っておる所存であったというから――」
「おいっ! おのおの方、司馬道場への婿引出は、何もあの壺とは限らぬのだ。なんでもよいわけのもの。ただ、絶大の好意を示す方便として、御当家においてもっとも重
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