動かさなかった。
 剣客のむすめだけに、剣のひびきに胆をひやさぬのは、当然にしても、じつは萩乃、この数日なにを見ても、何を聞いても、こころここにないありさまなのだった。
 屋敷中に、パッと明るく灯が輝いて、婢《おんな》たちの駈けまわるあわただしい音、よびあう声々――遠く裏庭のほうにあたっては、多人数のあし音、掛け声が乱れ飛んで、たいがいの者なら、ゾクッと頸すじの寒くなる生血の気はいが、感じられる。
 にもかかわらず、派手な寝まきすがたの萩乃は、この大騒動をわれ関せず焉《えん》と、ぼんやり床のうえにすわって、もの思いにふけっているのだ。
 ぼんぼりの光が、水いろ紗《しゃ》の蚊帳を淡く照らして、焚きしめた香のかおりもほのかに、夢のような彼女の寝間だ。
 ほっと、かすかな溜息が、萩乃の口を逃げる。
 恋という字を、彼女は、膝に書いてみた。そして、ぽっとひとりで桜いろに染まった。
 あの植木屋の面影が、この日ごろ、鳩のような萩乃の胸を、ひとときも去らないのである。
 無遠慮《ぶえんりょ》に縁側に腰かけて、微笑したあの顔。丹波の小柄をかわして、ニッとわらった不敵な眼もと……なんという涼しい殿御《
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