吉宗公も、こうしてはだかで御入浴のところは、熊公《くまこう》八|公《こう》とおなじ作りの人間だが、ただ、濡れ手拭を四つに畳んであたまへのせて、羽目板を背負って、「今ごろは半七さん……」なんかと、女湯に聞かせようの一心で、近所迷惑な声を出したり――そんなことはなさらない。
 御紋《ごもん》散らしの塗り桶を前に、流し場の金蒔絵の腰かけに、端然《たんぜん》と控えておいでです。
 五本骨の扇、三百の侯伯をガッシとおさえ、三つ葉|葵《あおい》の金紋六十余州に輝いた、八代吉宗といえば徳川も盛りの絶頂。
 深閑とした大奥。
 松をわたってくる微風《かぜ》が、お湯どのの高窓から吹きこんで、あたたかい霧のような湯気が、揺れる。
 吉宗公は、しばらく口のなかで、なにか謡曲の一節をくちずさんでいたが、やがて、
「愚楽《ぐらく》! 愚楽爺《ぐらくじい》はおらぬか。流せ」
 とおっしゃった。
 お声に応じて、横手の、唐子《からこ》が戯《たわむ》れている狩野派《かのうは》の図《ず》をえがいた塗り扉をあけて、ひょっくりあらわれた人物を見ると、……誰だってちょっとびっくりするだろう。
 これが、いま呼んだ愚楽老人なの
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