、芸阿弥《げいあみ》の編した蔵帳《くらちょう》、一名、名物帳《めいぶつちょう》の筆頭にのっている天下の名器で、朝鮮渡来の茶壺である。
 上薬《うわぐすり》の焼きの模様、味などで、紐のように薬の流れているのは、小川。ボウッと浮かんでいれば、かすみ、あけぼの、などと、それぞれ茶人のこのみで名があるのだが、この問題の茶壺は、耳がひとつ欠けているところから、こけ猿の名ある柳生家伝来の大名物。
 このたび、源三郎婿入りの引出ものに、途中もずっとこの茶壺一つだけ駕籠に乗せて、大大名の格式でおおぜいで警護してきたのだ。
 そのこけ猿の茶壺が、江戸を眼のまえにしたこの品川の泊りで、司馬道場の隠密つづみの与吉に、みごと盗みだされたのだった。
 肩をいからした柳生の弟子ども、口々にわめきながら、水も洩らさじと品川の町ぜんたいを右往左往する。首を送りこむ役は、門之丞にくだって、手紙をくわえた女の生首は、油紙《ゆし》にくるんで柳生の定紋うった面箱《めんばこ》におさめられ、ただちに夜道をかけて妻恋坂へとどけられた。挑戦の火ぶたは、きられたのです。
 宿役人の杞憂《きゆう》は、現実となった。春は御殿山《ごてんやま
前へ 次へ
全542ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング