言われて、台所の板の間に麻裏を脱ぎ棄てた与吉は、どんどん奥へ走りこんで、かって知った峰丹波の部屋をあけるなり、
「ア、おどろいた! います! この家にいるんです! なんて胆ッ玉のふとい……」
 さけびながら与吉、べたべたと敷居にすわった。

       三

 この剣術大名の家老にも等しい峰丹波である。奥ざしきの一つを与えられて、道場に起居しているのだ。
 机にむかって、何か書見をしていた丹波は、あわただしい与吉の出現に、ゆっくり振りかえった。
「今までどこにおった。壺は、どうした」
 どこへ行っても壺は? ときかれるので、与吉はすっかり腐ってしまう。
 でも、今はそれどころではないので、壺のことは、丹下左膳という得体の知れない人斬り狂人におさえられてしまったと、その一条《ひとくさり》をざっと物語ると、ジッと眼をつぶって聴いていた丹波、
「壺の儀は、いずれ後で詮議いたす」
 源三郎と同じことを言って、
「与吉、あの男に気がついたか」
 と、ためいきをついた。
「気がついたかとおっしゃる。冗談じゃございません。あの男に気がつかないでどういたします。あれこそは、峰の殿様、品川に足どめを食ってるはずの源三郎で……」
「声が高いぞ」
 と丹波は、押っかぶせるように、
「一同を品川に残して、そっと当方へ単身入りこんだものであろうが、はてさて、いい度胸だ」
「あなた様は、前から御存じだったので?」
「うむ、知っておった。秘伝《ひでん》銀杏返《いちょうがえ》し――イヤナニ、其方《そち》の知ったことではないが、この丹波、ちゃんと見ぬいておったぞ」
「それで、どうしてお斬りにならなかったので?」
「斬る? 斬る? 伊賀のあばれン坊を誰が斬れる?」
 丹波は、またしずかに眼を閉じて、
「源三郎に刃の立つ者は、広い天下にたった一人しかないぞ?」
 いぶかしげに、与吉は首をかしげて、
「へえイ、それはどなたで?」
「もう一人の源三郎殿だ。つまり、いまひとり源三郎殿があらわれねば、彼と刃を合わすものはあるまい」
「フウム、もう一人の源三郎……」
 と、何を思ったか、与吉、ハタと小膝を打って、
「峰の殿様、あっしに心当りがねえでもねえが――」
「いま、源三郎殿は、どこにおる?」
 いつのまにか、丹波は、顔いろを変えて、突ったっていた。
「其方《そち》が知った以上、やむを得ん。わしが斬られよう。丹波の生命もまず、今宵限りであろう」
「待った! あっしに一思案……」
「とめてくれるな」
 と丹波、大刀を左手《ゆんで》に、廊下へ出た。

       四

 逃げも隠れもせぬ。ここに待っておるから、丹波に告げてこい……源三郎はそうは言ったが、よもやあの刀を帯びない植木屋すがたで、暢気《のんき》に丹波の来るのを待ってはいまい――与吉はそう思って、丹波のあとからついていった。
 司馬道場の代稽古、十方不知火の今では第一のつかい手峰丹波の肩が、いま与吉がうしろから見て行くと、ガタガタこまかくふるえているではないか。
 剛愎《ごうふく》そのものの丹波、伊賀の暴れん坊がこの屋敷に入りこんでいることを、さわらぬ神に祟《たた》りなしと、今まで知らぬ顔をしてきたものの、もうやむを得ない。今宵ここで源三郎の手にかかって命を落とすのかと、すでにその覚悟はできているはず。
 死ぬのが怖くて顫《ふる》えているのではない。
 きょうまで自分が鍛えに鍛えてきた不知火流も、伊賀の柳生流には刃が立たないのかと、つまり、名人のみが知る業《わざ》のうえの恐怖なので。
「どうせ、あとで知れる。お蓮さまや萩乃様をはじめ、道場の若い者には、何もいうなよ。ひとりでも、無益な命を落とすことはない」
 と丹波が、ひとりごとのように、与吉に命じた。
 ずっと奥の先生の病間《びょうま》のほうから、かすかに灯りが洩れているだけで、暗い屋敷のなかは、海底のように静まりかえっている。
「だが、峰の殿様、どうして植木屋になぞ化けて、はいりこんだんでげしょう。根岸の植留の親方を、抱きこんだんでしょうか」
 丹波は、答えない。無言で、大刀に反《そ》りを打たせて、空気の湿った夜の庭へ、下り立った。
 雲のどこかに月があるとみえて、ほのかに明るい。樹の影が、魔物のように、黒かった。
 丹波のあとから、与吉がそっとさっきの裏木戸のところへ来てみると!
 まさか待っていまいと思った柳生源三郎が、ムッツリ石に腰かけている。
 丹波の姿を見ると、独特の含み笑いをして、
「キ、来たな。では、久しぶりに血を浴びようか」
 と言った、が、立とうともしない。
 四、五|間《けん》の間隔をおいて、丹波は、ピタリと歩をとめた。
「源三郎どの、斬られにまいりました」
「まあそう早くからあきらめることはない」
 源三郎が笑って、石にかけたまま
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