うしろ》からは、与吉待てえ、与吉待てえと、ガヤガヤ声をかけて追ってくるが、こいつばかりは、へえといって待つわけにはいかない。
 ぐるっと角をまがって、佐竹様のおもて御門から、木戸をあけて飛びこんだ。御門番がおどろいて、
「おい、コラコラ、なんじゃ貴様は」
 あっけにとられているうちに、
「へえ、ごらんのとおり人間で――人ひとり助けると思召《おぼしめ》して」
 と与吉、たちさわぐ佐竹様の御家来に掌《て》を合わせて拝みながら、御番衆が妙なやつだナと思っているうちに、ぬけぬけとしたやつで、すたすた御邸内を通りぬけて、ヒョックリさっきの横町へ出てまいりました。
「ざまア見やがれ。ヘッ、うまく晦《ま》いてやったぞ」
 ところが、与吉、二度びっくり――ところてんのチョビ安が、こけ猿の茶壺とともに、影もかたちもないんで。

       四

 ところ天の荷は、置きっ放しになっている。
 あわてた与吉が、ふと向うを見ると、こけ猿の包みを抱えたチョビ安が、尻切れ草履の裏を背中に見せて、雲をかすみととんでゆくのだ。
 安積玄心斎の一行は、与吉にあざむかれて、横町へ切れて行ったものらしく、あたりに見えない。
「小僧め! 洒落《しゃれ》た真似をしやがる」
 きっとくちびるを噛んだ与吉、豆のように遠ざかって行くチョビ安のあとを追って、駈けだした。
 柳沢弾正少弼《やなぎさわだんじょうしょうひつ》、小笠原頼母《おがさわらたのも》と、ずっと屋敷町がつづいていて、そう人通りはないから、逃げてゆく子供のすがたは、よく見える。
「どろぼうっ! 泥棒だっ! その小僧をつかまえてくれっ!」
 と与吉は、大声にどなった。
 早いようでも子供の足、与吉にはかなわない。ぐんぐん追いつかれて、今にも首へ手が届きそうになると、チョビ安が大声をはりあげて、
「泥棒だ! 助けてくれイ!」
 と喚《わめ》いた。
「この小父《おじ》さんは泥棒だよ。あたいのこの箱を奪《と》ろうっていうんだよ」
 と聞くと、そこらにいた町の人々、気の早い鳶《とび》人足や、お店者《たなもの》などが、ワイワイ与吉の前に立ちふさがって、
「こいつ、ふてえ野郎だ。おとなのくせに、こどもの物を狙うてえ法があるか」
 おとなと子供では、どうしてもおとなのほうが割りがわるい。みんなチョビ安に同情して、与吉はすんでのことで袋だたきにあうところ……。
 やっとそれを切り抜けると、その間にチョビ安は、もうずっと遠くへ逃げのびている。逃げるほうもよく逃げたが、追うほうもよく追った。あれからまっすぐにお蔵前へ出たチョビ安は、浅草のほうへいちもくさんに走って、まもなく行きついたのが吾妻橋《あづまばし》のたもと。
 ふっとチョビ安の姿が、掻き消えた。ハテナ!――と与の公、橋の下をのぞくと、狭《せま》い河原《かわら》、橋|杭《くい》のあいだに筵《むしろ》を張って、お菰《こも》さんの住まいがある。
 飛びこんだ与吉、いきなりそのむしろをはぐったまではいいが、あっ! と棒立ちになった。
 中でむっくり起きあがったのは、なんと! 大たぶさがぱらり顔にかかって、見おぼえのある隻眼隻腕の、痩せさらばえた浪人姿……。

       五

「これは、これは、丹下の殿様。お珍しいところで――その後は、とんとかけちがいまして」
 とつづみの与吉、そうつづけさまにしゃべりながら、ペタンとそこへすわってしまった。
 いい兄哥《あにい》が、橋の下の乞食小屋のまえにすわって、しきりにぺこぺこおじぎをしているから、橋の上から見おろした人が、世の中は下には下があると思って、驚いている。
 筵張りのなかは、石ころを踏み固めて、土間になっている。そのまん中へ、古畳を一まい投げだして、かけ茶碗や土瓶といっしょに、ごろり横になっているのは……。
 隻眼隻腕の剣怪、丹下左膳。
 箒《ほうき》のような赭茶《あかちゃ》けた毛を、大髻《おおたぶさ》にとりあげ、右眼はうつろにくぼみ、残りの左の眼は、ほそく皮肉に笑っている。
 その右の眉から口尻へかけて、溝のような一線の刀痕――まぎれもない丹下左膳だ。
 黒襟かけた白の紋つき、その紋は、大きく髑髏《しゃれこうべ》を染めて……下には、相変わらず女ものの派手な長襦袢《ながじゅばん》が、痩せた脛《すね》にからまっている。
「おめえか」
 と左膳、塩からい声で言った。
「ひさしぶりじゃアねえか。よく生きていたなア」
「へへへへへ、殿様こそよく御存命で、死んだと思った左膳さま、こうして生きていようたア、お釈迦さまでも――」
 右腕のない左膳、右の袖をばたばたさせて、ムックリ起きあがった。
 与吉はわざと眼をしょぼしょぼさせて、
「しかし、もとより御酔狂ではござんしょうが、このおん痛わしいごようす――」
「与吉といったナ」
 と、刻むよう
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