あとを見ていたお藤は、やおらムックリ起きあがって、手を伸ばして三味線をとりあげました。
すぐ弾きだすかと思うと、さにあらず、押入れをあけて、とり出したのは、中を朱に、ふちを黒に塗った状箱です。紐をほどく。ふたを除く――。
そして、お藤、まるで人間に言うように、
「さア、みんな、しっかり踊るんだよ」
と! です。おどろくじゃアありませんか。その状箱からぞろぞろ這い出したのは、五、六匹の尺とり虫ではないか――。
同時に、お藤、爪びきで唄いだした。
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「尺取り虫、虫
尺とれ、寸取れ」
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四
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「尺取り虫、虫
尺とれ、寸とれ
寸を取ったら
背たけ取れ!
尺とり虫、虫
尺取れ、背とれ
足の先からあたままで
尺を取ったら
命《いのち》取れ!」
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こういう唄なんだ。命とれとは、物騒。
こいつを、お藤、チリチリツンテンシャン! と三味《しゃみ》に合わせて歌っているんでございます。
畳のうえには、五匹ほどの尺とり虫が、ゾロゾロ這っている。まことに妖異なけしき……。
トロンと空気のよどんだ、江戸の夏の真昼。隣近所のびっしり立てこんだこの高麗やしきのまん中で、ひとりのあやしいまでに美しい大年増が、水色ちりめんの湯まきをチラリこぼして、横ずわり――爪弾きの音も忍びがちに、あろうことか、尺取り虫に三味を聞かせているんで。
お藤はじっと眼を据えて、這いまわる尺取り虫を見つめながら、ツンツルルン、チチチン、チン……。
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「尺とれ、背取れ
足のさきから頭まで
尺をとったら
命《いのち》取れ――」
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一生けんめいに呼吸をつめて、唄っているお藤の額は、汗だ、あぶら汗だ。この汗は、閉め切った部屋の暑さのせいばかりではない。人間のもつ精神力のすべてを、三味と唄とに集中して櫛まきお藤は、いま、一心不乱の顔つきです。
上気した頬のいろが、見る間にスーッと引いて、たちまち蒼白《そうはく》に澄んだお藤は、無我の境に入ってゆくようです。
背を高く丸く持ちあげては、長く伸びて、伸びたり縮んだりしながら、思い思いの方角に這ってゆく尺取り虫……。
西洋の言葉に、「牡蠣《かき》のように音楽を解しない」というのがあります。また蓄音機のマークに、犬が主人の声に聞き惚れているのがある。マーク・トウェインか誰かの作品にも、海老《えび》が音楽に乗ってうごき出すのがあったように記憶しております。
とにかく、動物は音楽を解するかどうか――こいつはちょっとわからないし、また、尺取り虫に音楽の理解力があろうとは思われないが……いま見ていると、この虫ども、一心不乱のお藤姐御の三味に合わせて、緩慢な踊りをおどっているように見えるので。
じつに、世にも奇態なことをするお藤――。
お釈迦様《しゃかさま》でも
一
この、なんの変哲もない古びた茶壺ひとつを、ああして大名の乗り物におさめて、行列のまん中へ入れて、おおぜいで護ってくるなんて、その好奇《ものずき》さ加減も、気が知れねえ……と、打てばひびくというところから、鼓《つづみ》の名ある駒形の兄《あに》い与吉、ひとり物思いにふけりながら、ブラリ、ブラリやってくる。
その御大層《ごたいそう》もない茶壺を、あの品川へ着いた夜の酒宴《さかもり》に、三島から狙ってきたこのおいらに、見ごとに盗みだされるたア、強いだけで能《のう》のねえ田舎ざむれえ、よくもああ木偶《でく》の坊が揃ったもんだと、与吉は、大得意だ。今ごろは、吠え面《づら》かいて探してるだろうが、ざまア見やがれ――。
いい若い者が、何か四角い包みを抱えて、ニヤニヤ思い出し笑いをしながら行くから変じァないかと、道行く人がみんな気味わるそうに、よけて行く。
しかし、こんな騒ぎをして、わざわざこんなものを盗みださせる妻恋坂のお蓮さんも、峰丹波様も、すこし酔狂がすぎやアしねえか――。
「萩乃どのの婿として乗りこんでくる源三郎様には、すこしも用がない」
と、この命令を授ける時、峰の殿様がおっしゃったっけ……。
「彼奴《きゃつ》は、あくまでも阻止せねばならぬ。が、その婿引出に持ってまいるこけ猿の茶壺には、当方において大いに用があるのだ」
そして、丹波、抜からず茶壺を持ち出せと、すごい顔つきで厳命をくだしたものだが、してみると――。
してみると……この茶壺の中は、空《から》じゃアないかも知れない。
そう思うと、なんだかただの茶壺にしては、重いような気がして来た。
与吉は、矢も楯もなく、今ここで箱をあけて、壺のなかを吟味したくてたまらなくなりました。
好奇心は、猫を殺す――必ずともに壺のふたを取る
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