イヤ、今は一藩の生命とが納《おさ》められているかと思うと、この大名物がひとしお重々しく、ありがたく見えるのもふしぎはない。
 その、左膳の手が壺の口にかかったのと。
 かんしゃくを起こしたお藤姐御が、
「お前さん! 火事ですってのに、あの半鐘が聞こえないのかえ。男の役に、火の手がどこだぐらい見てきておくれよ」
 と叫んだのと、同時だった。
 おまけに。
「おい、ありゃアお前《めえ》、本所の三つ半《はん》じゃアねえか。近そうだぞ」
「辰《たつ》のやつア走りながら刺子《さしこ》を着て、もう行っちめえやがった。早《はえ》え野郎だ」
「いま時分また、なんの粗相で……」
「ワッショイワッショイ、火事と喧嘩ア江戸の花でえ」
「アリャアリャアリャ!」
 まるでお捕物《とりもの》みたような騒ぎ、
「他人《ひと》の家が焼けるんだ。こんなおもしれえ見ものアねえや」
 なかにはけしからんことを言うやつもある。尺取り横町の連中が、一団になってもみあいヘシ合い、溝板《どぶいた》を踏みならして行く。
 左膳は、壺へ掛けた手をそのままに、きっと戸外《そと》へ耳をやった。

       九

 チョビ安が眼をさまして、床《とこ》の中から、
「父上! 火事ですね」
 と、イヤにのんびりとして言った。
 いったいこのチョビ安という子供は。
 ふだん何ごともない時には、いつも駈けたり跳ねたり、つまずいたり、たんか[#「たんか」に傍点]をきったり、とても騒々《そうぞう》しいあわてん坊で、一人で町内をさわがしているんだが。
 今のように。
 いざ地震、雷、火事、おやじ……もっとも、このチョビ安の父親《おやじ》は行方《ゆくえ》知れずで、それで左膳を仮りの父と呼んでいるわけだが――一朝、こういうあわてるべき場合に直面すると、逆に、変にのどかになっちまうのが常で。
 皮肉な小僧だ。
「火には水という敵《てき》があります。もえてえだけもえりゃア消えやしょう。下拙《げせつ》はいま一ねむり……」
 そんな洒落《しゃら》くさいことを言ってまた向うむきに夜着をひっかぶってしまった。
 自分のことを下拙《げせつ》などと、これが七、八つの子供の言い草《ぐさ》ですからイヤどうも顔負けです。
 壺のふたを持ちあげかけた左膳の手は、そのまましばらくとまっていたが、
「おい、安公! 餓鬼ア雀《すずめ》ッ子といっしょに起きるものだ。やいっ、用がある。起きろっ!」
「あい、なんだい。父《ちゃん》。起きたよ」
「起きてやしねえじゃねえか」
「耳は縦になっていても横になっていても聞こえるよ」
「アレだ。ちょっと本郷の妻恋坂へ走って、司馬道場のお嬢さんへこの手紙を渡してこい」
「なアンだ、何かくれるのかと思ったら、ちえっ、おもしろくないネ。三銭切手の代用か」
 チョビ安がしぶしぶ床を出た時。
 恨みをこめて、ジロリと左膳を流し見た彼女の眼には、いっぱいの涙があふれて今にも落ちそうでした。
 ちょっとしらじらとした空気が、室内に流れた。

 チョビ安は寝ぼけまなこをこすりながら、裏手の井戸端へ顔を洗いに、ガタピシ腰高障子《こしだか》をあけて出ていった。
 半鐘の音はいつしかやんだようです。夜はもうすっかり明けはなれている。
 あの手紙を萩乃へとどけておいて、自分はモウすぐにも埋宝個処へ旅に出ねばならぬ。
 オオそうだ、こうしてはいられぬ、壺中の秘図をとりだすのが第一だった、と。
 心づいた左膳が、ふたたび、こけ[#「こけ」に傍点]猿のふたに左手をのせて、その、奉書を貼りかためたふたを持ちあげようとした時だ。
「エエ町内のお方々《かたがた》、おさわがせ申してあいすいません。火事は遠うごぜえます。葛西領は渋江《しぶえ》むら、渋江村……剣術大名司馬様の御寮――」
 番太郎が拍子木《ひょうしぎ》を打って、この尺取り横町へはいってくる。
「チェッ! 火事は渋江村《しぶえむら》、ときやがら。こちとら小石川《こいしかわ》麻布《あざぶ》は江戸じゃアねえと思っているんだ。しぶえ村とはおどろいたネ。おどろき桃の木|山椒《さんしょう》の木……」
 さっき火事を見に出た隣近処《となりきんじょ》の連中がガヤガヤいって帰ってくる。
 じっと左膳の顔を見つめていたお藤、低声《こごえ》に、
「太郎冠者《たろうかじゃ》、あるか。おん前《まえ》に……」
 洒落《しゃれ》たやつで、仇名のとおりに、櫛まきにとりあげた髪を、合わせ鏡にうつして見ながら、立て膝のまま口のなかでうたいだしたのは、長唄|末広《すえひろ》がりの一節――。
「太郎冠者《たろうかじゃ》あるか。おん前に。念《ねん》のう早かった。頼うだ人はきょうもまた、恋の奴《やっこ》のお使いか、返事待つ恋、忍ぶ恋……」
[#ここから3字下げ]
恋の奴《やっこ》のお使いか。
返事待つ恋。
忍ぶ恋
前へ 次へ
全136ページ中113ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング