振り返ると、うしろが深編笠の浪人で、
「身どもが押しておるのではない。ずっと向うから、何人も通して押してまいるのだ」
こりゃあ理屈だ。怖い相手だから、
「へえ。なんとも相すみません」
威張ったほうが、あやまっている。
中には、纏《まと》い持ちが火事の屋根へ上がるように、身体じゅうに水をふりかけてやってきて、
「アイ、御免よ、ごめんよ。濡れても知らないよ」
とばかり、群衆を動揺させて、都合のいい場所へおさまるという、頭のいいやつもある。
「押さないでくださいっ! 赤んぼが潰れますっ!」
と子供をさしあげたおかみさんの悲鳴――。
「餓鬼なんざ、また生めあいいじゃアねえか。資本《もと》はかからねえんだ。なんならおいらが頼まれてもいいや」
江戸の群衆は乱暴です。
「もう一度腹へけえしちめえっ!」
カンガルーとまちがえてる。若い町娘にはさまれた男は、
「なに、かまいません。いくらでも押してくだせえ」
と、幸福なサンドイッチという顔。
三
ハリウッドの女優さんなんかは、署名《サイン》係というのを何人か雇っていて、ブロマイドにサインをしてファンへ送っているそうですが萩乃のは、稀《たま》のことだから、自分で書くのだ。もっとも、名前じゃあない。なまめかしい筆で、御礼と……。
なにか道場によろこびでもあって、この紅ふでの包みを拾おうものなら、天下一の果報者《かほうもの》というわけ。
いま群衆のなかに。
肩肘はった浪人者や、色の生っ白《ちろ》い若侍のすがたが、チラホラするのは、みんなこの、たった一つの萩乃直筆のおひねりを手に入れようという連中なので。
音に聞く司馬道場の娘御に接近する機会をつくり、あとはこの拙者の男っぷりと、剣のうで前とであわよくば入り婿に……たいへんなうぬぼれだ。
世は泰平。
男の出世の途は、すっかりふさがってしまっている。
腕のあるやつは、脾肉《ひにく》の嘆に堪えないし、腕もなんにもない当世武士は、ちょいとした男前だけを頼りに、おんなに見染められて世に出ようというこころがけ――みんなが萩乃を狙っているので。
現代《いま》で言えば、まア、インテリ失業者とモダンボーイの大群、そいつが群衆の中にまじって、
「老師がお亡くなりになった今日《こんにち》、必然的に後継《あとめ》の問題が起こっておるであろう。イヤ、身どもが萩乃どのとひとこと話しさえすれば……」
「何を言わるる。御礼の不知火銭を拾うのは、拙者にきまっておる。バラバラッときたら、抜刀して暴れまわる所存だ。武運つたなく敢《あえ》ない最期をとげたなら、この髪を切って、故郷《くに》なる老母のもとへ――」
決死の覚悟とみえます。
萩乃がお目あてなのは、さむらいだけじゃアない。町内の伊勢屋のどら息子、貴賤老若、粋《すい》不粋《ぶすい》、千態万様、さながら浮き世の走馬燈で、芋を洗うような雑沓。
金も拾いたいし、お嬢さんにも近づきたい……欲と色の綯《な》いまぜ手綱だから、この早朝から、いやもう、奔馬のような人気|沸騰《ふっとう》……。
妻恋小町の萩乃さま。
本尊が小野の小町で、美人というと必ずなになに小町――一町内に一人ぐらいは、小町娘がいたもので、それも、白金町《しろがねちょう》だからしろがね小町《こまち》とか、相生町《あいおいちょう》で相生小町《あいおいこまち》などというのは、聞く耳もいいが、おはぐろ溝小町《どぶこまち》、本所割下水小町《ほんじょわりげすいこまち》なんてのは感心しません。ある捻った人が、小町ばっかりで癪《しゃく》だというので、大町《おおまち》とやって見た。白金大町《しろがねおおまち》、あいおい大町《おおまち》どうもいけません。下に番地がくっつきそうで――。
やっぱり、美女は小町。
小町は、妻恋小町の萩乃様。
と、こういうわけで、きょうは司馬先生のお葬式だが、折りからの好天気、あのへんいったい、まるでお祭りのような人出です。
四
門前には、白黒の鯨幕を張りめぐらし、鼠いろの紙に忌中《きちゅう》と書いたのが、掲げてある。門柱にも、同じく鼠色の紙に、大きく撒銭仕候《まきぜにつかまつりそろ》と書いて貼り出してあるのだ。このごろは西洋式に、黒枠をとるが、むかしは葬儀には、すべてねずみ色の紙を用いるのが、礼であった。
大玄関には、四|旒《りゅう》の生絹《すずし》、供えものの唐櫃《からびつ》、呉床《あぐら》、真榊《まさかき》、根越《ねごし》の榊《さかき》などがならび、萩乃とお蓮さまの輿《こし》には、まわりに簾《すだれ》を下げ、白い房をたらし、司馬家の定紋《じょうもん》の、雪の輪に覗き蝶車の金具が、燦然《さんぜん》と黄のひかりを放っている。
やしきの奥には。
永眠の間の畳をあげ、床板のうえに真あた
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